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もう改めて書くのもめんどうな気がするのだが、一部の成人式の愚劣さは眼を覆うばかりだった。理由は簡単で、大人に信念がなく、甘やかしているからである。
両親と来れば騒がないだろうとか、始めから会場を遊園地にするとか、何で甘やかすのだろう。われわれ税金を払っている者としては、どうして愚かでしかも心が一向に成人していない小心者のために、そんなにお金を使うのか、と思う。
教室とか、式典の場とかいうものには、始めから約束ごとがある。それは、私語したり、途中から出て行ったりしない場所だということだ。それが嫌なら、最初からそんなところに行かなければいいのだ。別に成人式に行かないからと言って、退学にもならず、就職にも差し支えないのだから、行かない自由は厳然として残されている。
新聞で写真を見ただけだが、女性たちの着物姿も興ざめだった。同じような白いショールをかけている人がたくさんいる。制服ではないのだ。人と同じような服装はしない、というのが最低の個性の表れだろう。
男子の着物姿にいたってはあまりのおかしさに、私の周囲では皆がむしろ楽しんだようである。髪を金色に染めて、着物と羽織が同じ色の、タレント落語家の衣装である。しかも同じ色の着物が何十人といる。ご苦労さまにそんな滑稽な姿で暴れるのだという。自分のみじめさに途中から気がついたかどうか。
成人の記念行事は自分で考えることだ。いくらでもある。1冊の本を読む。その日母親に手料理を食べさせる(どんなに下手でもいい)。自画像を描く。遺書を書く。どこかの大地に人知れず木を1本植える。定期預金をする。その日1日にしたことを細大漏らさず記録する。1枚の音楽のCDを買う。1個の石を拾う。ボランティア・サービスをする。30キロ歩く。スポーツの試合に行く。父といい酒を飲む。
酒は父親のおごりにすれば、どれも大して金がかからないことばかりだ。あの滑稽なタレント落語家風のダサイ衣装の借り賃とだって、比較にならないほど安く上がるだろう。しかもこれらは誰からも強制されていない。すべて自分の責任で選択したものばかり。これこそ自由な若者たちの望むところだろう。
成人式をやめれば予算も確実に数百万円は浮く。予算はこういう風にして地道に無駄を省くものだ。地方自治体がどうしても成人の催しに一枚噛みたければ、後で「私の成人記念」のアイディアを募集して、爽やかな企画に賞を出せばいい。
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