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2001年10月29日
社会貢献支援財団(日本財団の関連財団の1つ)の平成13年度の表彰式典が東京全日空ホテルで行われるので、午前10時までに会場に着いた。今年も24のグループと個人を表彰し、副賞として100万ずつ(21世紀若者賞には20万円)の日本財団賞を出すのである。
10時過ぎ、ホテルの玄関で常陸宮・同妃両殿下をお出迎えする。毎年、こうして社会の片隅で勲章や表彰の対象になったこともなく、人間としてなすべき仕事をして来た人たちの表彰式に花を添えるためにご臨席くださる。感謝の他はない。毎年お変わりなくおきれいな妃殿下のことを、前ペルー大統領フジモリ氏が或る日突然私に、「妃殿下のスペイン語は実におじょうずだった」と褒めていたことを思い出した。誰もあまり知らないことだろう。
今年、救助のために故人となられた方の表彰は3人。山の遭難者の救援活動中、雪崩に遭われた浅井乙一さん。女性を襲った賊を追跡して刺された27歳の川原浩志さん。福井県の京福電鉄の運転手として、ブレーキの壊れた電車を最後まで止めようとして殉職された佐々木忠夫さんである。すばらしい人間の証を見せられた人たちだ。
10月30日
午前10時、日本財団で執行理事会。
11時半、駐日スリランカ大使カルナーティラカ・アムヌガマ氏来訪。
12時から阪田寛夫氏と、来年1年10回くらいの計画で、財団の1階ホールで行う唱歌・童謡の連続演奏会についての打ち合わせ。総監督と解説を阪田寛夫氏がしてくださることになる。最後に聴衆皆が歌うことについてもご配慮を頂けたら、とお願いしてみた。
4時半、定例記者会見。その後そのまま第1回のミニコンサートに出席してもらった。やはり日本財団の関連財団である日本音楽財団が所有している14挺のストラディヴァリウスのうち、今日は1709年製のヴァイオリン「エングレマン」を渡辺玲子さんが、1930年製のチェロ「フォイアマン」をイギリス人のスティーブン・イッサーリス氏が弾いてくださった。床が絨毯なので、伴奏のために買い入れたスタインウエイのピアノも響きがいまいちなのだそうだが、この世では人でも楽器でも完全な形で生きることはできない。入場料は無料。会社帰りのサラリーマンが、4、50分ほんとうに上等な音楽を聴いて、心の緊張を解きほぐして家庭に帰ってほしいのである。今日の入場者は320人。ホールは意外なほど人数が入る。
10月31日
午後から名古屋へ。「第51回 東海・経営と心の発展の会」で講演。すぐ新幹線で引き返す。
11月1日
少し風邪気味。体が不調になるとまず書けなくなる。料理や掃除などはけっこうできるのだが。
11月2日
日帰りで高知へ。日本看護学会で講演。看護婦さんというのは、私が今でも最高に尊敬する職業である。
11月3日
遅れていた原稿を午前中に少し取り戻す。あいにくの雨の中を「船の科学館」で毎年行っている障害者の「聖地巡礼友の会」。いわば国内での同窓会に70人ほどが集まった。シンガポールから陳勢子さん、ミラノからモンティローリ富代さんも日本に来ておられて、ここのところずっと我が家、つまり「民宿三浦」に宿泊中で今日も出席。
ご一行さまは、ホテル海洋に泊まり、明日は平和島に競艇を見に行くと言う。私がそうしませんか、と誘ったわけではないのだが、私が日本財団に勤めているうちに一度競艇というものを見てみたい、という人が多いので、旅行社がそういう企画にしたという。
旅行の時の指導司祭の坂谷豊光神父に朱門は封筒を渡して、「神父さん、明日は競艇場でこれだけは船券をお買いなさい。このお金はそのためにあげるんですから、それ以外のことのために使っちゃいけません。しかしこれ以上買っちゃいけません」と説教したらしい。もしかして当たれば教会が助かるのだ。
11月4日
朝、ホテル海洋の結婚式場でミサ。その後バスで平和島に向かう。私が俄ガイドで、結構でたらめな東京案内をしたら皆笑っている。
神父が船券を買うとカトリックでもない人が変に思うかもしれないと思い、バスの中で三浦が賭用のお金を寄付したことを皆に話した。すると隣にいた神父が小さな声で、「ボクはもう誤解されるのは、どうでもいいのよ」と笑っておられる。私の人間が小さく見えたのだろう。神にさえ知られていれば、全く人にどう思われようとどうでもいいわけだ。
今日の発見。全盲の人が、レースを実によく楽しんだ。周囲にいる人が「5番が出た出た。あ、次が2番!」などと叫んであげたからだと思うが、退屈どころか、全く見える人より楽しそう。
午後2時になると、坂谷神父は、きっちりと神父の顔に戻った。こっそりと立ち上がり、私とそれとなく競艇場を抜け出した。築地の聖路加国際病院の10階の緩和ケヤー病棟に入院中の鶴羽伸子さんに病癒の秘蹟と聖体を授けに行くためである。
「神父さま、賭はどうでした?」
「儲かったよ」
え? という感じであった。三浦は賭金を3万円神父に渡したのだという。それが9万円になっている。しかし神父は16人の神学生を修道院で育てている。食べ盛りで学費も要る。9万円は米代を少し稼げたということか。
しかしそれにしても、いつも神はおもしろい所におられる。私が海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOを30年前に始めたきっかけは、マダガスカルのホテルのカジノで、ルーレットが2回続けて当たったのが基本である。私は今でも賭ごとにほとんど興味がない。マダガスカルのカジノに行ったのも、その場の情景を小説に書くためであった。早くすって帰ろうと思っていたら、信じられない当たり方をした。その時、神は教会だけではなく、カジノにもおられる、と実感した。私はそのお金を神のために使わざるをえなくなった。
鶴羽さんは癌を宣告されてからこれで1年5ヵ月になる。もう最近は経口的にはわずかなスープとかアイスクリームくらいしか食べていない。
20年前、突然私は鶴羽さんからもう付き合わない、と言われた。私には全く理由を言わなかった。その頃から、私は自分が捨てるのではなく、捨てられるのは気楽だ、と感じるようになっていた。他の多くの友達が性格の悪い私を見捨てないでくれたのは、何と寛大なのか。
長い年月の果てに去年、私は突然再び鶴羽さんから電話をもらい、自分の再発した癌はもう不治だという宣告を受けたので、東京近郊でホスピスに入りに来たのだ、と告げられた。穏やかな口調だった。
絶交の時も今度も、鶴羽さんの方から通告されたのだ。私はまたそれをそのまま受け入れることにした。20年前、何を怒られたのかわからずじまいだが、私はそれでかまわなかった。人生で、何かを知り尽くすことなどできるわけがない。坂谷神父の「(人間に)誤解されるのはどうでもいい」という明快な言葉が、改めて輝くように私の心の中で響いた。私にも神がいてよかった、と思った。
神父は病癒の秘蹟として額に塗油し、ウエハース状の聖体の小さな破片を彼女の口に入れてから、私に水呑みの水で飲み込み易くしてあげるように命じた。今日鶴羽さんは元気だったし、昔と同じ口調で私と冗談も言った。私はこの病院に通うのにも馴れ、病室の窓からの眺めも共に楽しむようになっていた。もう人生もここまでくれば、先に死ぬのも後になるのも、数年かせいぜいで十数年の差なのだ。
11月6日
昨日家で受けたマッサージがよく効いて、まだ快くだるい。体中のしこりを解くことしか健康の基本はない、という説に私は賛成だ。しかし私は気が小さいから(と言うと皆が笑うのだが)体中をきっと針ネズミみたいに防御的に硬化させて生きているのだろう。だから凝りが溜まるのである。
午前10時、日本財団で執行理事会。
午後早々、オットー・プッツァー氏と夫人来訪。私の『天上の青』という連続殺人事件を書いた小説の英訳者である。タトル社から近く出るので、手を入れてくださっている由。出版まで長い時間がかかってしまったことをお詫びし、出版が可能になったことに感謝する。
夕方6時半、朱門と太一(孫)と新国立劇場ヘヴェルディの『ナブッコ』を観に行く。序曲の背景に巨大な七枝の燭台が浮かび上がる。「あれだけでこれはユダヤの物語だとわからなきゃいけないの」と囁く。しかしナブッコがネブカドネザール王のことだというのは……イタリア語の発音というのは、どうもコマッタもんだ、などとおよそ非芸術的なことを考えていた。しかし私はヴェルディが好きなのである。明らかにモーツァルトより好きだ。
11月7日
今日は講演会が2つ重なっている。
正午にポトマッククラブで、夜は川口市で内外情勢調査会主催のもの。その間に日本財団で仕事。
11月8日
夜、うちで海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。
南アから帰国中の根本神父が、パキスタンでイスラムの心身障害者の施設のために働く松本修道士を同行された。カトリックの修道士が、イスラムの貧しい病人のために働いていることになる。お客さまはその他にマダガスカルのシスター平間。
松本修道士は、障害児を男女それぞれに分けて訓練するための部屋をもう2間建て足したいと言われる。そのための200万円を要請され、すぐに認可された。しかしお金は松本さんが向こうへ帰られる日にお持ちいただくことが条件。シスター平間は1912年に建てた古い危険な校舎を新築したいといわれる。これが約1500万円。これも認可。
その他アフリカのベナン国ベンベレケのシスター中井から6本の井戸の掘削費用として約600万円。この申請も受理された。
今日だけで約2600万円を使う。お金を出してくださった方々には感謝以外にない。
11月9日
朝、インフルエンザの予防接種に行く。
朱門「ボクはインフルエンザなんてかからないよ」。私「予防接種してるからじゃないの」。どちらもどことなく間の抜けた会話だなあ、と思う。
午後、地元の消防署主催の「防火の集い」の講演をしてから、読売新聞国際協力賞の贈賞式に出席のため、帝国ホテルヘ。1997年、私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が受賞し、賞金を500万円も受けた。そのお金も注ぎ込んで、インドのデカン高原の真中のビジャプールという不可触民の町に、イエズス会の神父たちの経営による「ロヨラ・ヨミウリ・スクール」が今では建っている。受賞記念に読売新聞社の名前を残してもらったのだ。ダーリットと呼ばれるヒンドゥの不可触民の子供たちのためだけの学校である。建設の費用は約2700万円であった。
今年はネパールのムスタン地域開発協力会理事長の近藤亨氏が受賞された。標高3600メートルの、富士山より高い高地で稲の栽培を可能にした例は他にないのだという。
こういう日本的日本人にお会いすると、ここのところの否定的な空気の重さが軽減されるから不思議なものだ。
11月10日
国際ロータリークラブ(第2590地区大会)のために横浜で講演。この講演料は全額、海外邦人宣教者活動援助後援会に寄付して頂くようにお願いしてある。年に何回か、私のささやかな勤労報酬を寄付する形を取っている。
夜、ヴァチカンの尻枝正行神父と弟さんの毅神父、お姉さまのシスター満のご姉兄弟が夕食にいらしてくださった。サンマの塩焼きがおいしいとおっしゃる。簡単なものだ。
11月11日
少し疲れ、少し書き、怠惰な幸せ。
11月12日
夕方、日本財団の1階ロビーで、第2回目のミニコンサート。今日は珍しいオーボエの独奏。パリ管弦楽団の首席ソリスト、ミッシェル・ベネ氏で、伴奏はパリ市立シャトレ劇場音楽顧問のサビーヌ・ヴァタンさんである。恥ずかしいことだが、今日まで私はオーボエというのはフランス語で「高い木」を意味するのだとは知らなかった。
ブレヴィーユ作曲の「ソナチネ」が演奏されている間、私は前の通りを眺めていた。アメリカのアフガニスタン攻撃開始以来、近くのアメリカ大使館を守るために、日本財団の周辺は機動隊で溢れている。窓に金網を張った装甲車がいつも財団の前にいる。その車は音楽会が始まると、いつもそっと路の向こう側に引いてくれている。これは人生の芸術なのだ。それまで気をつけてくれた指揮官は誰なのか。
ブレヴィーユが終って一瞬音楽が止むと、機動隊がぴっぴっと笛を吹いて、通りの車を止めて検問をしている現世の響きがはっきりと聞こえて来る。しかし音楽の余韻と雑音のコンビネーションが、私には少しの違和感もない。それらは驚くほど、どこかで調和して人生を歌っている。
考えてみると不思議なものだ。音楽会場というのは、すべて外界を閉鎖した奇妙な空間だ。このミニコンサートでは、壁がすべて大きなガラスだから、町の光、不思議そうに中を見て行く通行人、そして警察、あらゆる生活の営みが見える。こういう空間で音楽が奏でられるケースはほとんどないのではないか。
ここはすばらしい会場だ。ごく微かな外界の音を理由に、ここはよくない会場だという演奏家がもしいたら……それは現世における音楽の効用をほんとうにわかっていない人だろう。
音楽会の後で『月刊ほほほ』誌のインタビューを受けた。
11月13日
朝9時、財団着。雑用。
午後飛行機で三沢へ。八戸市民大学講座の講演。ホテルの前のお鮨屋で、すばらしくおいしいいわしと鯖のお鮨を8個も食べて、その夜は八戸泊まり。
11月14日
午前中に帰宅。明日からアメリカヘ行くのでカバンを詰めるつもりだったが、原稿が間に合わなくなって、旅装は明日廻し。
11月15日
三枝成彰氏が数年前、アサヒビールの樋口廣太郎氏の依頼で、正式に葬儀ミサで使える『レクイエム』を作られた。樋口夫人の公子さんによると、2人は或る年、ブラジルで安酒?を飲んで、樋口氏は「僕の葬式のミサ曲はいつ作るんだ?」と三枝成彰氏に言い、「いざとなったらすぐ作ってあげます」と言われると、「それなら、僕がすぐ歌詞を書くから、君も今作れ」と言ったということになっている。私と幼稚園時代からの同級生の公子さんは慌てて私のところへ電話をかけて来て「あなた何とか書いてよ。そうでないと主人が作っちゃうから」と言われた。樋口氏が書かれた方がよかったのかもしれないが、結局私が作詞を担当して「三枝レクイエム」は完成した。去年の北イタリアのリバ・デ・ガルダの夏の音楽祭についで、明日16日、アメリカのシアトルでも上演されるので、主催者側から私にも来るようにとのこと。本当は樋口夫妻とも向こうで会えるはずだったのに、樋口氏が入院中なのでそれもできなくなった。公子さんからは昨日、逆に温かい見送りの電話があった。
成田のアメリカン航空のビジネスクラスの待合室に行くと、男たちばかり数十人、ひっそりとお酒を飲んだり新聞を読んだり。女性は中でたった5人。そのうち男性の連れ、つまり夫人と思われる人が3人。女の1人旅は、私ともう1人の外人女性だけ。タリバン側の新しいテロの標的になるなら、アメリカの航空会社だ、と言われている時に、やはり女性は危険を冒さないのだ。しかし我が家では、夫が危険だから行くな、とか、私も恐いから止めようなどと思ったことがない。人は皆、自覚してもしなくても、いささかの危険を担保にしなければおもしろい人生を送ることはできない。18時20分発。
日付の上では同じ日の朝9時半。シアトル着。複雑な空港の構造で、国際線から出て来たのに、荷物も取らないうちから、出迎えてくださった主催者のカトム・ユリコさんに会えた。町中のルーズベルト・ホテルに入る。便利で古くて、個性的でいいホテルだ。
カトムさんが港のレストランヘ連れて行ってくださる。かもめがたくさんいるので、どれがジョナサンか考えているうちに、クラム・チャウダーのスープの方に気をとられた。帰ったら私流のクラム・チャウダーを作って見ようと思う。
11月16日
午前中にサンフランシスコから、聖心の同窓のロビンソン陽子さんがホテルに着いた。ここのところずっと彼女が東京に来た時でもゆっくり話せなかったところに、世界貿易センターの事件が起きた。彼女はユナイテッド航空で働いているのだから、あれからの忙しさはどんなだったろう。9月以来、初めてまとまって休みを取れた、ということらしい。
アメリカ中の飛行機が、国内線の便を減らしたので、ユナイテッドも職員が飛行機の予約をするのは大変だという。先日ユナイテッドの職員でニューヨークからサンフランシスコヘ移動するのに、ニューヨーク?シカゴ?デンバー?ポートランドと乗り継いで、やっとサンフランシスコまで来た人がいたという。
夜7時、ロビンソン陽子さんとセント・ジェームズ・カテドラルヘ。この「三枝レクイエム」の中にはカトム・ユリコさんが亡き夫の死を前にして書いた『青い天使』という詩の一部を訳した歌も入っている。
入場券は12ドルとかで売り切れ。定員700人で入り切れない人がドアの外で待っている。世界貿易センターの事件が起きるはるか以前に、このレクイエム演奏は企画された。合いすぎていたことが悲しいが、それもこの盛況につながっているのかもしれない。
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