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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 初めての半旗  
コラム名: 私日記 第24回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/12  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年9月1日

 秋の兆しはまだ皆無だけれど、私は単純な反応を示すので、今日から夏休みが終って働く日、という感じがする。夫の母、三浦小イシが89歳で亡くなってちょうど10年。10年前の今日、私たち夫婦はヨーロッパにいた。義母は午前中にシャワーを浴びてさっぱりしたと言い、昼御飯まで少し眠ることにして、そのまま目覚めなかった。89歳。若い時「新劇の売れない女優」だった時代があったそうで、質素にボロを着る趣味もあったが、やはり最後まで美女であった。私はいい加減な嫁さんだから、家で最期を過ごしてもらったことをもってよし、としてしまった。

 午後在来線で小田原へ。市の教育委員会の講演会。終ってまた新しい在来線の車輌で子供のように電車に乗るのを楽しんだ。


9月4日

「今年はどうしても行く」という覚悟で、朱門と上野へ絵を見に行く。院展、二科展などを見て、駅前の安いカレー屋でライスカレーを食べる。客は1人ずつ入って来て、黙々と食べて出て行く。しかしライスはいいお米。アメヤ横町で、朱門の好きな桃6個と身欠き鰊を1箱買う。柔らかい身欠き鰊があるといろいろな料理ができるので嬉しくなるのだ。


9月5日

 9時半、日本財団着。

 辞令交付、執行理事会、案件説明、広報打ち合わせ。広報は、財団の電光掲示板の画面処理をもう少し洗練されたものにするため。その間にお客さま4組。

 夕方、インドのバーギス・ジョージ・プテュパランピル神父来られる。もう数年も京都の花園大学で勉強しておられるというのに、東京の浅草も知らないと言われるので短時間の見物に連れ出した。仲見世で人形焼きを8個買って、たった500円なのに1万円札を出し「すみません」と謝る。ジョージ神父と歩きながら食べたが、焼き立ての熱々ですばらしい味。拝殿の真ん前の大きな提灯に、お茶屋と芸者の名前が書いてあったことについて、家に帰っても朱門に「なぜだ」と質問が続く。ジョージ神父は今夜は私の家に泊まられた。


9月6日

 朝8時少し過ぎに家を出て、地裁へ。

 オウム裁判を初めて傍聴する。何でも希望者が押しかける時と場所には、私は行かないことにしているのだが、知り合いの新聞記者に聞くと、このごろは大分人気がなくなっているというので行くことにした。傍聴希望者の列に並ぶ。後で発表されたところによると、58人の入場者に対して並んだのは63、4人だったらしい。それで落選したらよっぽど運がないんだなあ、と思っていたらどうやら入れて貰える組に入った。

 裁判の印象。

(1)麻原という人は、ぼけているどころか、かなり計算した上で有名な「ブツブツ言う独り言」を言っているように見える。自分にほとんど関係ない内容の時には黙っていて、不利な証言が出そうになると、発言者に心理的圧力をかけるためだろうか、かなり大きな声でブツブツ言う。

 こういう被告には、防弾ガラスを嵌めたブースを作ることだ。ブース内には外の証言が聞こえるが、中の音声は外に洩れないような装置にする。証言者が麻原の違法な発言で心理的に乱されることなど、容易に想像つくではないか。

 また、こういうブースを作れば、保安の要員もうんと減らせる。麻原の出入りは刑務官の人垣の中で行われている。傍聴席周辺の警備の人たちも恐ろしく短時間で交代する。私たちはもっと長い時間持続して勤務するものだ。こういうところでも冗費節約はできるはずだ。

(二)新聞記者の席が傍聴席の半分を占めていて、しかもがら空き。出たり入ったりの人がほとんどで、ずっと続けて聞いている人はいたかどうか。使わないのに、これほどの数の席を確保する必要なし。新聞は他人のことは容赦なく摘発するが、自分たちの思い上がりにはこんなにもルーズである。

 午後財団でホームページ用のインタビューなど3本。


9月7日

 午前10時、いすゞ本社を訪問、稲生武会長にお礼を申し上げる。私の働いている海外邦人宣教者活動援助後援会を通してコンゴ民主共和国で働くシスターの奥地の診療所に対して、いすゞの小型トラック(人間も4人乗れる)1台を寄付してくださったのである。こういう国は、患者を運ぶにも、訪問・出張診療するにしても、公共のバスが全くないに等しいのだから、車がなければ、シスターたちは仕事ができない。車は命である。

 その後茅ヶ崎の松下政経塾に廻り、アフリカの情勢など講義した。夜は、朱門と歌舞伎座。小泉総理が感動されたという『米百俵』は山本有三作である。私自身は、やっぱり先のことなんかどうでもいいから、今日の夕食に腹いっぱいになるために、百俵の米を「配給してくれえ」と言う方だなあ、志が低いんだなあ、と考える。

9月8日

 日帰りで長崎。「第9回『教育県長崎』振興大会」で講演のため。大村空港に降りると、日差しが実に透明で感動する。

 明日からシンガポールで休日。しかし羽田着20時の飛行機で帰って来たら、疲れて荷物を作る気にもならず、そのまま寝てしまった。


9月9日〜12日

 東京の生活は、生き甲斐に満ちているのに、シンガポールヘ来ると解放感で体中の筋肉が緩むような気がする。

 でもシンガポールはまだ「餓鬼(ハングリー・ゴースト)」の月。こういう月には、信心深い人は旅行しないし、家のヴェランダや庭の一隅にお線香とお供えものをして餓鬼を慰める。数年前、うちも餓鬼のイタズラにやられた。触れもしないのに、シャワールームのガラスドアが倒れて来て朱門が足に大怪我をした。その時、シンガポーリアンの皆が、「餓鬼」が悪さをしたという。しかしどうしたらお祀りできるのか、誰も教えてくれないので「お餓鬼さま、悪さはしない方がいいですよ。誰もあなたを嫌っていないのですから」とよくよく話しかけることにした。

 シンガポールでは毎朝現地時間の6時前に起きる。まだ外は暗い。それから衛星放送で日本のNHKの午前7時のニュースを見る。

 12日の朝6時、ビルに飛行機が突っ込む映像が出た。私は「映画の宣伝?」と夫に尋ねた。ニューヨークの世界貿易センタービルに自爆テロの飛行機が突っ込んだ報道だった。シンガポール時間でも前夜のことだったのに、私は早くテレビを消して寝てしまっていたので、朝まで知らなかったのである。

 日本時間午前10時過ぎまで、ニュースを見ながら考えていて、それから日本財団の電光掲示板に載せる文章を書き、ファックスで送った。

「日本財団は人間の幸福がテロによって達成されると思う短慮に対して深い悲しみを覚えます。
 行方不明の日本人犠牲者の生還を祈ると共に、救助のために生命を捧げられたアメリカ人警察官、消防士、その他の方々に深い尊敬と哀悼の意を表します」

 間もなく笹川陽平理事長より電話が入った。

「電光掲示板は緊急放送として終日対応します。社屋上の国旗は半旗にしました」

 お隣はアメリカ大使館である。国旗を掲げることで、こうして人間的な心を表現できるのは、まことに便利なことだ。


9月17日

 昨夜帰国し、今日は私の古稀の誕生日。

「古来稀なり」だから古稀と言ったのだが、「今やざらなり」になった、と誰かが言っていたのを聞いたことがある。しかし現実を見ると、やはり70歳という区切りは越えるになかなか恐ろしい厳しさを持っている。

「たくさん70歳で死んじゃうんだぞ」

 と朱門は言う。

 だから毎日「今日までありがとうございました」と神さまに言うことにしている。明日のことはわからない、と自分に言い聞かせ、毎日今日で死ぬことにして、心の決算をつけている。でも考えてみれば13歳の時に大東亜戦争が終った。それ以来日本には戦争がない。こんな幸運な時代に生れ合わせて、私は恐いほど運がいいのだ、と思う。

 誕生日など祝ったこともないのだが、今年だけ、今の秘書、前の秘書、前の前の秘書、我が家でいっしょに暮らして来て私たちの仕事を助けてくれた方たちなどが、渋谷のインドネシア料理店でお誕生会を開いてくれた。こういう晴れがましさはあまり体験しないので、感謝がなかなかうまく言えない。

 70歳の決心は2つ。国家の財政を考えて健康保険をできるだけ使わないようにすること、と、いつまでも家事をすること。

 昼間、新聞社のインタビューを受けた時「再来年からの連載、よろしかったら1日分何枚か教えておいてください。できたらスタート前に書き上げておきたいんです。だって連載は途中で死ぬとそちらもお困りでしょう」

 と言ったら、それは助かる、と言ってくださった。連載途中で死んだり、中断同様になったりした作家もあるけれど、できれば凡庸に生きて書き上げることが連載小説の最低の義務と昔から思っている。連載の最後の数日分を書いている時には、事故を恐れて、プールで泳ぐのも我慢したことがあった。こういうのをバカ律儀というのだろう。


9月18日

 宇部市の国連運動全国大会で講演。

 帰りは小郡から新幹線で広島へ出て、大学時代の友人と会食。皆よく喋るところをみると、まだぼけていない。

9月19日

 朝8時半、迎えを受けて呉の海上保安大学校へ。日本財団は海上保安庁の仕事を昔からずっとサポートして来た。今でもマラッカ・シンガポール海峡の標識敷設など、財団が資金を出し、実務を保安庁にやって頂いているプロジェクトは多い。すべてこれらは「日本のため」という、単純明快、偏りのない目的を持っている。

 訓練を見に海辺に出たら、カモメが突堤に等間隔に並んでやはり見物している。土木の現場でも、定礎式や本川締め切りなどの催しのある日には、猿が見物に来ていたから、動物の世界も退屈していて、ことがあると見物するのである。

 東南アジア諸国から、沿岸警備隊の関係者を短期に招聘したり、留学生たちを長期に呉の大学校で預かったりして頂いているが、その経費も財団から出させてもらっているので、彼らに集まってもらって生活上の話を聞いた。こうして1つ釜の飯を食べて一緒に寝起きし、同じ訓練で絞られると、自然に深い友情が生れる。その心のつながりを、私は資産であり、安全保障の1つの方法だと感じているのである。

 夜8時、羽田帰着。


9月20日

 昼過ぎ、日本財団の関連財団である「社会貢献支援財団」の今年度の日本財団賞の受賞者発表。理事・評議員の中には、樋口廣太郎(アサヒビール名誉会長)、伸津十月(エッセイスト)、吉田忠明(トマト銀行社長)、米長邦雄(永世棋聖)、内館牧子(脚本家)、立石信雄(オムロン会長)、前田又兵衛(前田建設工業会長)、福原義春(資生堂名誉会長)というような方々がいられて、こういう強烈な個性と意見の持ち主が、少しも妥協せず、最後の最後までゲキロンを闘わしてくださったということは、どんなに感謝してもしきれるものではない。

 そのため議案の承認が遅れ、会の直後に行われる記者発表の資料の整備が遅れてしまったが、こういうことなら、私はどんなにでも喜んでお詫びでき、朝刊の締め切りには遅れないようにできる。「やれやれ、よかった」という思いは、喜びと自戒を込めたものである。

 夕方元ペルー、前ケニア大使・青木盛久氏来訪。フジモリ氏のことについてお礼を言われる。今でも私のところへ匿名で「なんでフジモリを隠しているのか」という手紙を寄越す人がいる。私は一度もフジモリ氏を「隠した」ことなどない。最初から公表して、いつでも出ていらっしゃれる住処を提供しただけだ。一市民の私には、それ以上の政治的力など全くない。

 夜、自宅で海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。南アのヨハネスブルグの修道会におられる根本昭雄神父から申請のあったエイズ・ホスピスの建設に対して、2千万円を支出することを決定できてよかった。


9月21日

 義姉、暁子(息子の妻)、太一(孫)と私たち夫婦で愛宕の「醍醐」で食事。太一は、こういう高級な食事は、これが初めてで最後と思っているらしく、感心しながら食べている。「教養」を食べているつもりらしい。

 夜、インタビューなど自宅にお客さま2組。


9月23日

 昨日と今日、2日は続けて家でゆっくり原稿を書けるはずだったが、東京ビッグサイトで、急遽、同時多発テロ事件の「米国テロ被害者追悼・お見舞いの会」が行われることになった。主催者は「日米協会、日本国政府」である。奇妙な表記の順序だ。何にせよ、政府が1枚噛むなら、政府の名前が先に来るべきである。

 一般市民誰でもがお花を持って来ていいので、従って決まった席はないのだが、後ろの方に「立ち見席」と書いたスペースがあったので、私たちはちょっと呆気に取られた。ここは芝居小屋ではないのだ。強いて書くなら「立ち席」である。外務省のお役人は、法律と語学には強くても、日本語はできない人が多いのだろう、と思う。

 そのまま都内のホテルで、日本に来ておられるクライン孝子さんと『正論』『サピオ』の2つの雑誌のための対談。

「オサマ・ビンラディン氏、とは何事ですか。ヘル・ビンラディンなんて書いてるドイツの新聞ある?」

 と私。

「ない、ない」

 とクラインさん。日本人というのは規則ずくめにしか行動できない奇妙な人たち。


9月25日

 朝9時半からずっと日本財団の内部的な仕事。財団は中国の大学に日本の図書を送っているのだが、受け取り先の大学の代表者が会いに来てくださった。

 昼、財団の新社屋の内装を設計してくれた会社と、まだ植えていないシンボルとしての木を何にするかを決めるために会う。誰も私みたいな園芸オタクはいないらしいので、さんざん迷った末、クスノキにした。落ち葉の始末にお金がかからないし、何より樹形がよく、これから温暖化に向かっても暑さに強そうだ。それに樹齢も数百年は可能……まあ、夢も植えましょう。

 午後は、3時間にわたって支援先の事業成果を査定する会社から報告を受ける。アメリカのこの手の査定会社は、依頼主が、自分がお金を出した先がうまく行っていないなどと報告されると怒るので、たいていうまく行っている、という報告をするそうだが、私たちはそんなに甘くない。最初から理想的に行っているはずはない、と思っているから、厳しい報告がないとうちでは通用しない。日米の大きな違いか。


9月26日

 特殊法人の民営化に関しては、今日から数人の代議士の先生方に、日本財団についてご説明に行くことになっている。私のもっとも苦手な仕事。

 日本財団にはもともと政府のお金は入っていない。しかも既に民営法人になっている。理事会、評議員会には、外部から個性強く、かつ「何かあったら黙っていない人たち」に入ってもらっている。情報は100パーセント公開。天下りは、理事に1人、監事に1人だけ。監事にはわざと官から入ってもらって、客観的な公明性を保つことに私は賛成なのである。会長は、理事会によって選出され、完全に無給。

 つまり特殊法人の民営化に日本財団は全く賛成である、ということを文書にして、今日は牧野隆守氏と野中広務氏をお訪ねする。牧野氏は初め恐い顔をしておられたのでご気分でもお悪いのかと思って心配したが、次第に穏やかなご健康そうなお顔になられたのでほっとした。野中氏はテレビでお見かけしているより、ずっと若々しい。テレビ映りでむしろ損をしている方である。

 しかし私はどうもこの世界ではぎこちない。第一議員会館と第二議員会館とどちらへ行ったのかもわからない。「やはり野に置いてくださいよ」としきりと思う。

 夜、私がダムの勉強をしていた時代、東電の現場に立ち入ることを許してくださった平岩外四氏他数人で夕食。平岩氏の驚くべき読書量も話題になる。

 その後、日本テレビに寄り、収録の打ち合わせ。


9月28日

 らしくないことの続き。今日は古賀誠氏と中曽根康弘氏をお訪ねする。このお2人とは、それぞれに昔の「思い出」みたいなできごとが少しあるので、ちょっと気楽。

 午後、来年の障害者との旅行のスケジュール作りのため、坂谷豊光神父来訪。聖パウロゆかりのギリシャ各地の後、クレタ、ミラノ、ベネツィア歴訪を予定する。ベネツィアは別に信仰上のポイントではないが、大変に行きにくいところだし、地中海文化を考える上で大切な町の構造を持っているので、私が入れて頂いた。

 夜TBSで細川護煕氏と対談。陶芸と畑づくりは、話題がぴったり。細川氏が知事時代に県の産物として頂いた蜜柑の苗木12本は、すべて育って、ザボンなどは薬罐くらいある実が十数個なっていることをご報告して、今度一度「ご検分にいらしてくださいませ」とお願いした。


9月29日

 金沢ボランティア大学校の講演のために、朝の飛行機で出発。会場は中年以上の方たちで溢れていて、こんなに皆がボランティアに関心を持つ時代になったかと、感動した。

 近江町の市場で東京人種としては、普段食べられない賛沢品や飢えている食料をしこたま買い込んで、夜は知人の家で楽しいパーティー。


9月30日

 病院に同級生を見舞う。顔つきも元気そうで安心する。必ず東京に来る、と約束してくれた。その後高岡市で経済同友会の講演。

 知人と約束があるので、すぐ金沢に引き返した。


10月1日〜3日

 金沢から列車で大阪乗り換えで新神戸へ。神戸で泊まって、2日は淡路島の夢舞台というところで開かれた国際海事大学連合の第二回総会で挨拶した。これは世界中の主な海事大学が集まって、船員の質の向上とカリキュラムなどの統一化を計るものである。アフガニスタンでは荒野の中で破壊が計画されている、というのに、海の世界では、こうして協調が実現している。どうしてこういう違いが起きたのだろうと思う。

 3日、高知へ飛んで、国際ソロプチミストの創立30周年記念の講演会に出て帰京。

 5日間家を空けると疲れる年になったと実感する。
 

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