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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: タイ王国紀行・2001(4) 「タニヤ&パッポン」夜の横丁物語  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/11/06  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「いや、君。あそこは面白いところだね」 ≫

 この地球紀行シリーズは、お天道様の下で見聞したネタを、少々文芸風?に料理する手法をとっている。だから、夜のお遊びスポットには、焦点を当てていない。だが、バンコクの旅行記に、それがないのは、“泡のないビール”のような気もする。「バンコクに行ってきた」と言うと、たいていの日本人ビジネスマンは「いかがでしたか」とか言ってニヤリとする。だが、表題の「2つの横丁物語」は、夜の話だが、「そのこと」がテーマではない。伝統文化の香り高いこの王国の首都に、「タニヤ」(Thaniya)と「パッポン」(Patpong)が、いかにして誕生し、いまどう旅人の心をとらえているのか。いうなれば、「大衆文化からみた都市の変遷」についての話である。

「タニヤ」と「パッポン」。前者は日本人、後者は欧米人が日没後好んで訪ねる町だ。東京なら、赤坂とか、歌舞伎町にあたる盛り場だが、中身はちょっと違う。先日見るからにお上品なさる日本人ミセスがバンコクにお出かけになるに当たって、「どこか面白いところを教えて」と言われ、この2つの通りの名前をあげた。ところが、現地のホテルのフロント嬢に地理を聞いたら「貴女のような上流の方が訪ねるところではありません」と断られたという。「いったいどんな場所なの?」。彼女はいまでも首をかしげている。

「いや、君。あそこは面白いところだね。ワシが現役時代、何度もバンコクに出張したが、駐在員たちが案内してくれたのは、格式ばった退屈な酒席ばかり。あの通りの存在さえ教えてくれなかった。引退して自由の身になったら、連れていってくれた。もっと早く知っとくべきだったな」。親しいお付き合いをしている元財界のドンが私のバンコク報告を聞きつつ、そう言ったのである。

 さて、そこはいかなるところなのか? バンコクの地図を開く。市街地の真っ只中、目抜き通り、スリウォンとシーロム大通りを結ぶ2本の横丁がある。いずれも長さは200メートルほどで、100メートルの間に隣り合わせで平行に走っている。今回の旅の相棒、関晃典さんに頼んでタイの物知りにこの街の由来を調べてもらったのだが、1960年代前半までは、裏ぶれた小路でそれぞれタニヤさんとパッポンさんが地主だった。これが色と欲が売り物の大衆文化の街へと変ぼうしたのだ。

最初に変身をとげたのは、パッポンである。60年代の初め、ベトナム戦の激化とともに、米軍の司令部が、バンコクの高級住宅街スクムビット通りに設置された。戦闘の司令所というより、後方の兵站基地であった。軍需品、食糧の供給や補充、そして戦場帰りの米兵のレクリエーションの機能を果たすサービス基地をタイ政府が提供したのだ。当時の司令部ビルがいまでも残っていた。「チョクチャイ・ビル」という名の7階建。その頃はバンコクで一番背の高いビルだったという。付近のソイ(小路)に、「カウボーイ」という店ができた。米軍司令部用のパブだった。

「でもここは、エライ人のバー。タイ湾に入港する第七艦隊の水兵や、ベトナムから一時休暇でやってきた米兵のために、別の場所にGo Go Barが、いくつもできた」。関さんの古い友人のタイ人弁護士がそう言った。タイ政府や米軍の命令で開設されたのではなく、商業原則にもとづき自然発生したのだという。それが歓楽街、パッポンの始まりであった。


≪ Go Go Dancerとベトナム戦争 ≫

 午後9時。頬にかすかに風を感ずる熱帯の夜の始まりである。パッポンを散策する。さして広くもない横丁の真ん中に露店が中央分離帯のように連なっている。ナイキ、ポロ、リーボックなどのブランドものが積んである。「これニセモノですよ。わかってますね」。関さんがささやく。値段は本物の5分の1以下だが、それにしてはよくできている。小路の両側には「ALL YOU CAN PAY」(お買得屋)、「PUSSY ALIVE」(PUSSYとは女性のある部分の音心)、「KING CASTLE」(王城)、「FIRE CAT」(情熱的な女性の意)、「GOLD FINGER」(映画、007を連想せよ)etc。意味深長な英語名の店が並んでいる。その大部分がGo Go Barだ。

 店の1階。バーのカウンターの上で、タイ人女性が、十数人、Go Goのリズムに合わせて踊っている。客はビールを飲みながら品定めをする仕組みだ。店内を見渡すと、客はオール欧米人。「いかがですか?」「ウーン。カルチャーが違うんだよな」。早々に店を退出する。ビール1本分100バーツ(300円)を支払って。「そう言うと思った。やはりね」したり顔の関さん。この店は、ダンサーを選んで2階に上がる仕組みになっている。昔の東京の「青線方式」だ。

「それにしても、タイ人の女性って、体格がいいんだね」。「あなた、何も知らないのね」あきれ顔の関さんがまた解説してくれた。タイは美容整形の本場とのこと。ポチャポチャタイプが、整形で欧米人好みの鼻の通ったマスクとボインの女性に化けるのだという。「ニュー・ハーフ(女性に変身したゲイ)もいます」と。技術が確かで安価なので、有名人、無名人を問わず日本から整形にやってくる人も多いとのことだ。パッポンが、タイの美容文化を生んだのである。

 隣のタニヤ通りに河岸をかえた。「まとい寿司」「すし幸」「神田」「古都」「瀬里奈」「築地」「蝶」「夢」「浪花」「姫」「愛」etc。ここはまさしく日本であった。バーやクラプだけでも30軒はある。そのひとつに入ってみた。「私たち、パッポンの女とは違う。整形なんかしていない」とホステス嬢。ここには西洋化していないタイ女性の素顔があった。客はすべて日本人。欧米人は全く見かけない。好みが違うのである。同じ狭い地域の2つの横丁の客が、「欧米」と「日本」にものの見事に分離される盛り場など、世界の都市でもここしかあるまい。

 タニヤは新しい街だ。パッポンが米兵でごったがえしていた70年代、この横丁には日本の会社の駐在員用の飲み屋が2軒しかなかったという。1985年の「プラザ合意」(円高誘導と黒字減らしの国際通貨会議)以降、日本のアジア投資が急拡大、バンコクの日本人駐在員が激増した。店の古い日本人常連客から面白い話を聞いた。

「昔、パッポンのある店の従業員に“愛”ちゃんという人がいましてね。この人がスポンサーを見つけて、タニヤにクラブを開いた。レーザー・ディスクのカラオケを日本から輸入した。それが日本の駐在員にバカ受けしました。エッ、この人? タイ人です。日本人と結婚して横浜で幸せに暮らしているそうです」。タニヤの発現のエピソードだ。

 “愛”ちゃんは、パッポンの「青線方式」ではなく、女性を外に連れ出す「同伴外出方式」をあみ出した。それが日本人男性のフィーリングに合うと分析した。“愛”ちゃんの成功にあやかろうと、同じようなシステムのカラオケ・バーが沢山開店し、次にお色気抜きの寿司屋、飲み屋、薬屋、洋服屋、そして本物のタイ式マッサージ店が出現した。

 かくしてバンコク駐在の日本人3万人、旅行者1万人がマーケットの不夜城、タニヤが出現したのである。

 英語の『地球のあるき方』に相当する『Lonely Planet』を拾い読みしていたら、「バンコクの別名はSex Capitalなり」とあった。それには違いないが、パッポンやタニヤがその起源ではない。タイに限らず、売春は古代からあった“産業”である。この本によると17世紀のアユタヤでは、外国の商人が駐在すると「現地妻はどうか」と王朝が勧めた。売春婦がこの古都にはびこるのを防止するためで、当時、600人の現地妻を管理する部署が政府にあったという。この国では1934年まで一夫多妻は合法であり、1950年まで売春もまた合法であった。チュラロンコン大学の調査によると、タイには売春婦が20万人と、1万人の売春ゲイがいるといい、タイの独身男性の75%は、月に2回は売春婦のもとに通うとか。タイでは売春は違法で、13歳以下の女性を買春した場合は終身刑に処せられるが、目立った取り締まりはやっていないという。

 その理由を考えてみた。答えは、タイのセックス産業があまりにも巨大だからであろう。これもチュラロンコン大学の調査書に出ていたのだが、売春の値段は労務者用の40バーツから外人用の3000バーツ(9000円)まであるという。仮に20万人のProstituteが、平均、月、20日就業で一口1000バーツ稼ぐとすると、年間の総所得は600億バーツになる。世界一の米どころ、タイ王国の年間の米輪出額に相当する。

「なるほどこの数字から見てもバンコクは、アジア一のSex Capitalだね」。タニヤのクラプ嬢の“お誘い”を辞退し、本格的タイ・マッサージ専業の「タニヤ温泉」で、この夜の探訪の仕上げをやった。

 その時の、元商社マン関さんと私の暗算によるタイのSEX産業の“計量経済学”の結論である。
 



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