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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: タクラマカン沙漠縦断  
コラム名: 私日記 第23回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/11  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年8月3日

 上海より新彊ウイグル自治区トルファン(吐魯番)へ向かう寝台車の車中。

 朝4時半、目覚める。靄、ポプラ、トウモロコシ畑。家の屋根が平、雨が少ないんだな、と思う。7時を過ぎるとヤオトンと呼ばれる穴居住宅が目立つ。イスラム寺院、十字架の墓もある。羊の群、見え始める。

 朝食は食堂車で。コウリャンのお粥、キャベツの酸っぱい漬け物、小さなどじょうインゲンと拍子切りのハムの炒めもの、巨大な包子(蒸しパン)、脱脂粉乳。

 午前11時2分、外気温35度。速度毎時112キロ。なかなかの列車である。昼食は包子の残りに、太郎(息子)が持っていた太刀魚の缶詰を添えて食べる。150円の弁当も買ったが、バリバリのかわいた御飯と、チンゲンサイとモヤシの妙めもの、骨つき肉の煮たものは、ほとんど食べるところがない。午後は読書。『大谷探検隊シルクロード探検』を読む。至福の時。アレルギーと診断された咳は続いているが、旅に出ると休まるのだから、回復は眼に見えている。

 13時、宝鶏駅を過ぎると左手に黄河。大地よりもっと泥色。トンネル多くなり、読書切れ切れになる。

 15時20分、天水駅に停車。その後少し昼寝。

 18時に食事をする。黄河の深い谷。人も家も畑も道も何もかも泥だらけ。太郎、一人当たり100元(1500円)ずつ徴収。列車内の3食分の食費でも余るだろう、とのこと。

 9世紀から10世紀にかけて、ウイグルはキルギスによってつぶされる。13部族約10万人は、唐の北辺に沿って南下し、別の15部族は西走した。この人たちは天山北路の北庭(ビシュバリク)に至った。難民は最近始まったことではない。これらはすべて「ディスプレイスド・パーソン」。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)は何が何でも人々を元いた土地に戻そうとするが、昔から人々は追われ、途中で病死し、居座り、仕方なく受け入れられ、定着し、やがて活路を見いだした。それが人間の運命ではないか、と太郎は言う。

 夜遅く少し咽頭痛。


8月4日

 夜半、目を覚ます。満月、列車の曲がり具合に従って窓ガラスの中を右往左往する。しかし数分と暗黒が続くことがない。必ずどこかに灯火が見える。ここは荒野ではない。私たちは交易路を走っている。これはおどろくべきことだ。大谷探検隊のころ、既にホータンに電線があった。

 午前6時、目覚める。7時、雨。嘉峪関駅に着く。三層の楼門を持つ城壁見える。10時34分、敦煌駅。もっとも遺跡とはうんと離れているのだという。チベット交路の起点。11時半、新彊に入る。灰色の土漠始まる。50元(750円)の食堂の食事。ハムとピーマン、イカとキクラゲ、春雨と鶏、ニクジャガならぬトリジャガ、西瓜。朱門(夫)下痢。

 13時半、哈密(ハミ)着。ガイドさんがハミメロンを買って切り身をごちそうしてくれた。ブドウ畑現れる。

 17時、●(善におおざと)善(ピチヤン)到着直前に天山山脈の東端の山塊見える。外気温42度。しきりにお茶を飲んだ。19時10分。吐魯番着、下車。少しも長く感じない列車の旅であった。北京時間の19時だからまだ明るい。上海から4016キロという自動車道路の里程標見える。つまり私たちもそれと同じくらい列車に乗ったのだ。

 ここは一年中、風と砂塵の渦巻く土地だという。家々の屋根に、すけすけのレンガを積んだ奇妙な室が建っている。干しブドウを作る冷房である。

 緑州賓館に入ってから、近くの高昌風情園というレストランでウイグル料理。歌と踊りがやかましくて、食欲をそがれる。


8月5日

 トルファン東方50キロの火焔山の奥の石窟群ベゼクリク千仏堂へ。

 農業用水が道に沿って流れているのに驚く。天山山脈からの雪解け水をカレーズと呼ばれる地下水路で引いて来たものである。昔はロバでメッカまで行ったものだ、とガイドが言った。気の遠くなるような話だ。アレルギーの咳はまだなかなかよくならない。咳のし過ぎで肋骨の下が痛くなっている。

 トルファンは昔、高昌(西暦442年〜640年)と呼ばれていた。古くは車師人が住み、その後漢人が来たという。石窟は、南北朝から元代に掛けて掘られ、高昌回鶻に最盛期を迎えた。内部は日干しレンガで形づくり、洞窟の天井はドーム型になっている。

 しかし描かれた仏の顔は、執拗なまでに念入りにイスラムに破壊されている。もっとも20世紀初めにドイツ隊が剥がして持って行ってしまったのもあるという。先日バーミヤンの大仏がタリバンに破壊されて皆大騒ぎをしたが、昔から彼らは同じことをやって来たのである。

 そのうちに暑さで少し気分が悪くなって来たので、ゆっくりと坂を上ってバスに戻った。私は言い訳を作るのがうまいので、顔のない仏さまなんかいくら見たって仕方がない、と思い、早々に茶屋で凍った水の壜を買い、冷房の効いたバスの中でゆっくり飲んでいたら間もなく治った。朱門は私の顔が真っ赤になったのを初めて見たという。軽い熱射病なのである。

 それから高昌故城に廻る。そもそもは紀元前1世紀に建てられたものだが、14世紀に焼かれてしまった。故城は外壁、内壁もあるらしいが、どれも融けかけたような遺跡が部分的に残っているだけ。

 1人150円を払ってロバ車に乗る。熱射病にかかるより怠惰が利ロと思うことにした。中年の大学教授(息子)は「ロバと競走するぞ」と言っている。何のことかわからなかったが、つまり私たちの乗ったロバ車と約700メートルほど暑い沙漠の遺跡を競走して、どちらが勝つかということだ。学生さんたち数人もいっしょに走ってロバに勝った。

 「新彊には、オレより速いロバはいないぞ!」と大学教授は言う。馬子ならぬロバ子は日本語で「ロバちゃん、かわいそう」と言いながらロバに答をくれていた。

 講堂、経蔵、塔頭の跡を見た。

 それから阿斯塔那古墳群に行って、3体のミイラを見た。70歳の老女は足の骨も伸び伸びとしている。30歳代で死んだ夫の頭蓋骨は若々しい。足が大きく土踏まずがくっきりしている。

 午後、土産もの屋に違れて行かれたが、刺繍のハンカチを480元(7200円)で売っている。いくら手が込んでいると言ってもひどくヤボである。世界のマーケットを知らないということはほんとうに気の毒。


8月6日

 交河城址に行く。2つの河の間にできた遺跡である。歩道はきちんと整備されているが、暑さは相当なもの。その上、咳を止めるために抗ヒスタミン剤を飲んでいるので、どうもうまく歩けない、という感じ。大仏殿の跡まで行って早く帰って入りロの茶店で休んでいたら(私はいつも見学をさぼってばかりいる)、別の中国人のグループが西瓜を切っていた。半月刀みたいに反り返った包丁で、まず両端を切り、その切り口で刃をぬぐう。すばらしい衛生的な切り方である。

 カレーズを見られるところまで行ったが、そこではいろいろな種類の干しブドウが売られている。ただし干しブドウは、製法が清潔ではないので、私は食べないことにしている。土埃を浴びたものも、下痢の原因になる。

 午後、ブドウ園に行くというので、朱門と私は部屋へ帰って昼寝。19時頃、太郎たち帰り、緑色のブドウ一房をお土産に持って来てくれた。


8月7日

 西の庫爾勒に向けて出発。綿畑。荒野。天山近づく。狼煙台の跡を時々見る。沙漠に花が咲いたかと見えるのは、白いビニールなどのゴミ。砂丘の北側に吹きつけられて集まっている。やがて山地に差しかかる。標高1800メートルまで登る。

 13時半過ぎ、ムシタラ村の「荷花飯店」という食堂で、バン麺を食べることにした。太い手打ちうどんに、羊肉、トマト、葱などを煮込んだものをかけ、生ニンニクを齧りながら食べるのである。初めての私はなかなかおいしいと思うが、ご当地2度目、3度目の人たちは、そろそろバン麺地域に入ったかと思うと、うんざりするらしい。値段は1皿120円。

 17時半過ぎ、コルラ近くの鉄門関に着く。川が流れていて、そのせせらぎが渓谷中に響いている。水の上に差し伸べられた楊の太い枝を利用してベッドを作っている人がいた。夜もそこで寝るのだろう。天下一の贅沢な寝床。

 18時半、巴州賓館着。1日386キロを走ったことになるらしい。16階の部屋から新興都市の夜景を眺めた。これが西域か、と思う。


8月8日

 庫車へ向かう。

 朝、エレベーターの中に、体長5センチくらいの黒い蝙蝠がぶらさがっていて、学生たちを喜ばせた。

 沿道は大地に塩が吹き、紅楊と呼ばれる低いタマリスクの灌木に、文字通り紅色の花が咲いている。行き交うトラックはすべて車体がブルーに塗ってある。

 12時55分、人ロ6万人のクチャ着。町は馬車やロバ車だらけ。75パーセントがウイグル族。亀茲賓館に着いた。

 16時30分、スバシ故城へ。玄奘三蔵の『大唐西域記』に残る昭仏寺がそれであろう、と言われている。人家も全くないクチャ河に沿ったおおらかな遺跡に残るのは、崩れかけた仏塔一つ。しかし河を隔てて両側に拡がる山脈の壁に、光が繊細に差し込んでこの上なく奔放な静謐を湛えている。

8月9日

 クチャから北へ70キロのキジルヘ。この辺の住人は、もう99パーセントがウイグル人である。

 途中、塩水渓谷で小休止。2千年前からのワジ(涸川)だというが、今はところどころに水がある。玄奘三蔵もここをまちがいなく通ったという。山襞斜めに屹立、ゴジラの背びれのよう。草木一本もなし。

 11時ちょっと過ぎ、キジル千仏堂に着く。盆地には紅楊の花満開。洞窟を幾つか見たが、私はこの千仏堂というものに、あまり興味がないので、早めに下りて休憩室で飲み物を飲んで待っていた。

 皆が来るのを待って、食事をしてからクズルガハの狼煙台を通る。約2千年の年月の間、こうして沙漠に建っているのである。帰りに塩水渓谷の続きの広大なワジを横切ったが、名前はない、という。決まった地点を流れないし、涸れてしまうこともあるからだろう。イスラエルでは、どんな小さなワジにも名前がある。新彊は偉大。


8月10日

 今日はタクラマカン沙漠を縦断する。朝久しぶりに薄寒くなった。タクラマカンとはウイグル語で「入ると出られない」という意味だという。

 8時出発。まず約100キロ余り東に向けて走り、それから南下するのである。今日の行程は730キロと日程表には書いてある。千仏堂になるとさぼってばかりいるのに、沙漠は私の最も心躍る場所である。それで「もしどうしてもという人がなければ」と太郎に相談して、一番前の座席を今日だけもらうことにした。

 10時半、沙漠道路に入る。沙漠縦断と言っても、中央の部分に石油発掘の基地があるので、1995年以来縦断道路ができていて、普通の観光バスで、7、8時間あれば乗り切れるのである。この道路は場所によっては100メートルの深さまで砂を退けて、下の岩盤を出して工事をした、という。100メートルは少し大げさだと思うが、大工事だったのだろう。私が密かに恐れていたのは、道路に沿って高圧電線が設置されている光景だった。舗装があっても、電線が見えても、それは沙漠ではない。幸いなことに電線はなかった。しかし予測しなかったのは、道路の両脇に20メートルくらいの幅で、防砂のための葦を植えてあることだ。普通に植えても根が流れてしまうから、コンクリートの小さな枡のような構造物を入れて、その枡を植木鉢と同じように使って固定している。

 このあたりは、白楊(ポプラ)、青楊(胡楊)、紅揚(タマリスク)の土地である。沙漠の入り口には原種のポプラがコルクの木のように生えている。タリム川を渡る。泥色で水量多い。これが一番長い川で2200キロ以上流れて沙漠に消える、という。やがてクロワッサン型の砂丘続く。数キロに1カ所ずつ、太陽電池のパネルを設置したパワーステーションがある。

 昼を少し過ぎた頃、道端で西瓜1個とハミ瓜1個を切って皆で食べた。私が上海で買っておいた包丁が役立った。気温が上がって来たせいか、小さな竜巻が幾つも起きて足元を洗われる。

 13時少し過ぎ、石油公社の門前食堂のようなところで、皆の呪いの的?のバン麺を食べる。私はまだ飽きていないのでおいしく感じる。

 17時50分、2羽の鳥を見る。水場が近い証拠である。18時43分、天山南路に出る。カラブラ(砂嵐)の薄いのがずっと吹いている。今夜の泊まりは民豊という小さな町。ニヤの遺跡は有名なのだが、まだ一般人は入れないという。

 ニヤ賓館は冷房なし。しかし扇風機があるから立派なもの。窓を開けたいのだが、アブが入るのだろう、と誰かが言う。


8月11日

 和田へ向かう。約320キロ。

 今日初めて、エンジン・トラブル。しかし運転手さんの腕がいいので大事に至らず、道端に15分ほど止まっただけで動いた。

 この天山南路は二千年の間に南に100キロ動いたという。まだタクラマカンの南の縁辺を走っている。それが嬉しい。

 途中の町で羊肉の炊き込み飯の昼食を食べることにした。手元が見えないほど、というのは少し大げさだが、暗い食堂。しかし熱い御飯は衛生的である。

 和田の和田賓館泊まり。

8月12日

 南へ27キロのマリカワト故城へ行く途中、お墓の所で、老人一家に会う。と言っても白髯のご主人は63歳で、私よりずっと若い。私は70歳だと言ったら驚いていた。市場へ行く途中で、白と黒の山羊は100元(1500円)で売れるという。

 この故城は実におおらかで夢がある。途中でバスを乗り捨てて1キロくらいロバ車に乗って行くのだが、天地は渾然と光の空間として融合している。どこへ行っていいかわからないほど広い遺跡なので、朱門と焼き物をした跡だという場所を目指して歩き、明瞭な壼の破片を3個拾った。それから村の少年からいわゆるホータンの玉を4個600円で買った。羊の脂肪の色をした白がもっともいいというのだが、それほど上等ではない。しかし青磁色の太い絹糸で綴って、おもしろいペンダントができると思う。

 午後、ホータン河の河原で石拾いをした。眼で玉を見つけるのかと思ったら、河の中に入り、足の爪先で玉の材質を探って拾うのだという。私はそれほどの意欲もないので、河原を漫然と歩いていたら、雲母がたくさん入ってキラキラと輝く大きなお握りのような石を見つけ、それだけを持ち帰ることにした。私の最高の記念品である。何しろホータンの石なのだから。

 バザールを見たが、鼠の死体を並べている店があった。鼠を売るのではなく、鼠取りの装置を売るのである。両手に金茶色の羽をしたニワトリを10羽くらい花束のように持って歩いている男も印象的だった。切り身にした西瓜を売る屋台には、歯跡のついた食べ残しもたくさん積んである。汚いように見えるが、この店の西瓜は甘くて、こんなにもたくさん食べて行きました、という宣伝のつもりらしい。

 夕食の時、白いお酒を少し飲んで酔った。


8月13日

 ヤルカンド(莎車)に向かう。

 ローカル・ガイドはイスラム教徒で、「私は年に2回しかお祈りをしない。あはは」と笑った。正確なニュアンスはわからないが、イスラムは断食月でも自宅から50キロ離れていれば旅に出ていると見なされ義務を免除されるはずである。だからアラブの金持ちは、断食月には皆パリヘ行って、毎日食べたいだけ食べている、という人もいる。

 11時半頃から、礫沙漠始まる。前方砂嵐。流砂を横切る。北から南に流れている。

 16時、ヤルカンド着。莎車賓館は、昔の政府の招待所風の貧しいホテル。ロビーには八角形の壊れたタイル張りの噴水。痰壼がおいてあった。浴室のタイルは剥がれ、壁にはかび、ドロドロの足拭き、水洗トイレの蓋だけなぜかブリキ。

 しかし昼飯なしでやって来た私たちにちゃんと食事は出してくれる。


8月14日

 西端の目的地、カシュガル(喀什)に向かう。

 もう緑地かと思ったら、まだ礫沙漠が続く。途中、英吉沙という町は刃物の名産地だそうで、お土産を買いに立ち寄った。何のことはない、取手の細工も道路で作っているのだから、工場用地など要らないのである。

 順調に着くはずだったのに、カシュガル大橋の袂で止められた。明日八十二師団の大規模な演習があるので、そのためだ、という。

 カシュガルでは乾隆帝の3番目の妃で、ほんとうは容妃というのだが、体からいい香りがしたので「香妃」と呼ばれた人も埋葬されているという(ほんとうは清の東陵に葬られている)イスラム様式の一族のお墓に立ち寄った。しかしタジマハールなどとは、比ぶべくもない。

 モスク前の広場で、皆とはぐれてしまい、私は町の人を見て待っていた。ここが長い長い旅の終点である。もっともまだ帰るためだけに6日くらいはかかる。

 雨が少し降って来た。

 ホテルは色満賓館。大きな敷地である。その一隅に旧ロシア領事館の建物があった。1890年という年号も銘板に見える。ここがスヴェン・ヘディンがその調査旅行の途中、何度か立ち寄った所だ、と思うと胸が躍った。

 中は何になっているのか入れないが、横のトイレは使わせてくれた。誰もスヴェン・ヘディンのことなど、知らないように見える。

 夫はトイレを使い「ポクはヘディンと同じトイレでおしっこをしたぞ」と言った。
 



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