|
秋には読書週間というものがあるらしいが、それはいつのことなのか私にはわからない。老人の日にだけ老人を見舞ったりするのは浅ましいことだと感じているから、読書週間も同じように思うのである。
昔からまじめな本を出して来た出版社が押し並べて景気が悪いということは、実は由々しきことである。本当に最近若い人と話していて本を読んでいないのに驚くことがある。それは戦後長い間、先生も親たちも子供に、「本を読みなさい」と強制しなくなったからである。一つには自分自身がテレビしか見ないし、美容院や理髪店ではマンガ本かお噂を中心とした週刊誌を読むだけで、本気で長い学術書も小説も読まなくなったから、子供に本を読みなさいと言えなくなったのである。
私はテレビやインターネットの知識と、本の知識とは、その深さにおいて全く雲泥の差だと思っている。素人や準素人がインターネットやデータベースで手に入れられる程度の知識で、一つの小説や学術論文は全く書けない。ことに最近は人手不足なのか景気が悪いためか、データベースに入れる内容が薄く浅くなって来ていて、改めて本の知識には全くかなわなくなって来た、という人もいる。
自分の出版社の本が売れる売れないだけを考えていたらだめなのだ。読書人口を増やすことが日本の将来と書店の命脈にかかわっている。本を読まないのは「悪」か「貧」の一つだと、はっきり子供たちに言ってやる空気を日本中で作らなければならないのである。
私は日本財団というところで働くようになってから、広報の仕事はすべて若い人たちといっしょに現場で働いているので、どうして全出版社が合同で新聞の全面広告かテレビのコマーシャルを買って、
「出世したかったら本を読め!」
「人と同じ生き方をして安心するな。自分を創るために本を読め!」
とかいうような言葉で読書運動を起さないのか、不思議でならない、と先日或る人に話したら、極めて思索的文学的なその人物は、下品で通俗的な私のキャッチフレーズには困惑の微笑を浮かべながらも、そうした運動が必要なことには全面賛成してくれた。
これから世界の中の日本で、どのように生きるかは、政府や文部科学省が考えてくれることではない。個人が常日頃深く模索し続けることでそれが安全と自由につながる。そのためにはまず哲学や自然科学の本を読むといい。その副読本として小説も有効なのである。
|
|
|
|