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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 西域へ  
コラム名: 私日記 第22回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/10  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年7月14日

 朝、上野の寛永寺で、笹川良一・日本財団前会長の七回忌法要。「財団には、人間的な情熱を持った若者たちが現在のびのびと働いておりますから、彼らにいい仕事をさせてやってください」とお祈りした。

 帰りにアメ屋横丁に寄って、中国旅行に持っていく分と、明後日から行われる財団の引っ越しの時に食べてもらう分と、かなりの量の駄菓子を買う。


7月15日

 パシフィコ横浜で、日本新生児学会の講演。迎えの車が会場に到着するのが早すぎてしまったので、近くのショッピングセンターに着けてもらい、20分間買いもの。シャツの下に着るタンクトップを買えた。私は実は気が弱いので、旅に出るとなると、あれこれと下らないものまで用意をする。着たきり雀で、下着の着替えもいらない、という女友達がいると、私もそうなりたい、と思うが、実は寒さも恐い。不潔に馴れるようにしてはいるが、洗濯が大好き、という惰弱な神経である。


7月17日

 引っ越し最中の日本財団へ自室の整理に行く。ものが少ないから、あっという間に片づく。ついでにビルの壁面に新しく設置した電光掲示板のデモ・テープも見せてもらう。電光掲示板は新社屋の赤坂通りに面して設置されており、思想的な内容は一切扱わない。ただお知らせと日本人が知るべきデータだけを流す予定である。内容に関してここまで基本的な形を造ることは、私にだったらとてもできない、と思いつつ、画面の処理はまだまだヤボ。専門家の手を借りなければならない。

 夜は家で、JOMAS(海外邦人宣教者活動援助後援会)の運営委員会。海外で働く神父と修道女の仕事に対して資金を送る小さなNGOである。

 毎回、私たちが援助している先の神父や修道女が休暇で帰国されると、会合にお招きして様子を聞いている。今回はアフリカのチャドからシスター平静代、大和ひろみのお二人。ネパールからシスター金谷美代子が帰られた。帰国組のために、本当は日本のご飯を炊いて夕食をお出ししたかったのだが、お中元でいただいた上等のハムがあったので、それと庭の野菜のサラダ等で、即席のサンドイッチ。JOMASは運営費を予算の中から1円も落としていないので、いつも我が家で用意する会合用食事は、質素なものにしている。

 今日の申請で決定されたもの。

 ボリビアで貧しい炭鉱離職者などの子弟を集めた学校を経営しているヴィセンテ神父から、40万キロ乗った車を買い換えたいとのこと。そんな古車でも5千ドルで下取りされるので、新車に払うお金は237万5千円。

 南アの根本神父からのエイズ病棟の拡張新築工事に2千万円。

 ボリビアのシスター斎藤から、母子寮の敷地内の私道150メートル分の整備費として175万円。

 クリオン・フィリッピン・アフリカを助ける会から、コンゴ民主共和国のキブというところにある師範学校360人の生徒たちの給食費として年間300万円。

 フィリッピンにトラピスト会のフィロメノ・シンコ神父が責任者になっている貧しい家庭の生徒を集めている学校がある。そこの先生や職員たち19人分の1年間の給料として394万円。

 コート・ジボアールのシスター勝から既に中請があった地域の図書室の建設費用に不足分が出た。その分が75万円。

 今日だけで、3,182万円を決定した。


7月18日

 一日中、中国旅行をしている間に来るはずの原稿の締め切りを早めるため書き溜め。少し疲れて、夜はオーチャードホールで東京フィルハーモーニー交響楽団の定期演奏会を聴きに行った。ドボルザークの序曲『オセロ』、チェロ協奏曲ロ短調作品104、交響曲第7番二短調作品70を聴く。「偉大な通俗」という言葉をしみじみ思う。「通俗」ということを日本人は否定的に使うが、「通俗を侮蔑する」のは単なる思い上がりということだろう。


7月19日

 新ビルで初めての職員との顔合わせ。パーキンソンという人が昔書いた本に、会社というものは新社屋を作った時から社運が傾く、という説があった。つまり組織というものはいつまでも創業精神を忘れず、ボロっちい社屋で、見場悪く働け、ということ。しかしうちの場合は面積が足りなくなったことと、社屋も古いビルを改築した、ということで、パーキンソンの法則にあてはまらないようにすべきだ、ということを喋る。その後、執行理事会と雑用。その後、三戸浜へ。


7月20日〜23日

 原稿を書き続ける。ファックスの調子が悪くて少しイライラ。庭は日照りで植物がかわいそう。庭仕事を手伝ってくれている藤野さんが、手製でカラス脅しを作った。黒いビニールで作ったニセモノのカラスの案山子が吊るしてあるだけなのだが、これがなかなかの名作で、感心して何度も眺めた。

7月24日

 10時、財団で執行理事会。

 11時、評議員会。会議は新しい会議室で行われたが、昼食は8階の食堂で用意された松花堂弁当が配られた。外で取るより安い。

 午後1時半から、先日のアフリカ旅行に関する短い感想をTBSラジオのために録音。

 午後4時、関連財団である日本顕彰会の受賞者選考委員会。日本財団は昔から社会のために働いて来た人たちに感謝の賞を贈ってきたが、3年前から、人命救助、長い年月にわたって昼夜をわかたず人間的に他人の生活を支えて来た人、海事関係の研究技術開発などに長い年月尽くして来た人などに視点を変え、お贈りする賞金の額は100万円にふやした。

 今日の選考委員は、もと帝国ホテル代表取締役社長・犬丸一郎氏、元東京都副知事・金平輝子氏、東京財団会長・日下公人氏、上智大学教授・アルフォンス・デーケン氏、上智大学名誉教授・渡部昇一氏、と私なのだが、実に個性的で楽しく自説を曲げない方たちばかり。受賞者は内定したが、後は受賞していただけるかどうかの意志の確認をいただいてから発表の段階になる。

 選考会後の夕食の間に失礼して中座し、旧社屋の3階にお祀りしてあった神様を新社屋にお遷りいただく神事に参列した。こうした神事は日が暮れてからでなければいけないのだそうで、神棚の置いてある部屋も明りを消し、お札を下ろして白布に包み神官が奉持なさるのだが、エレベーターだけは明りを消せなくて逆にぎょっとした。新社屋の8階の食堂の一部に面した所に新しく作った神棚にお遷りいただいたところで電灯を灯した。


7月25日

 世界海事大学という組織は、途上国の海事関係者に対して世界的なレベルで海事教育を受けられるようにするために1983年に設立された大学院大学だが、87年に日本財団が100万ドルの奨学資金を提供した。現在世界の36カ国で200人以上の卒業生が活躍しているが、今日初めての日本笹川奨学生会議、つまり同窓会が東京で開かれる。

 朝一番に、代表者数人が訪ねて来てくださった。

 11時から、日本財団理事会。午後は私用で出版社2社の担当者と会った後、4時から記者懇談会。

 初めに、どうして移転することになったか、このビル移転に関する費用一切のデータを公表した。バブルの時代にじっとしていたのでずいぶん安く買ったようである。私はつい余計な話をするのだが、関連財団が今まで外部に払っていた家賃がどれだけ安くなったかも喋ってしまった。新しい家主である日本財団が妥当な家賃を受け取るのだが、それでも東京財団は6,730万円、笹川平和財団は2,334万円、1年間に倹約できることになる。

 午後5時から、外部のお客さまをお迎えして、まず電光掲示板の画面を見ていただいた。それから最上階の会場に席を移して祝賀会が始まり、その途中で「館内ツアー」が出た。

 私はまた悪い所を見せるのが好きだから、知人の新聞記者に「うちの『カンゴク部屋』見ます?」と聞いたら、記者という人種はよその家のもめごとが好きだから、すぐついて来た。「カンゴク部屋」というのは喫煙室のことなのだが、笹川陽平理事長と尾形武寿理事の「親心」で最もフユカイな空間にしよう、ということになったのである。強力な排気装置があるだけで窓もない、椅子も足りない、絵1つかかってない。美人揃いの秘書課のお嬢さんたちによれば、移転数日にして新しいタバコに火をつけなくても吸った気になれるほどの匂いが立ちこめた。

 もう1つケチな内輪話。この披露パーティーの時、お料理以外に業者が20万円かかる企画書を持ってきた。内訳を見ると、「竣工祝賀会」と書いた横断幕、金屏風、花の飾り、その他で、私はすぐ断った。会に来る人で、この会が何の会だか知らない人はいないわけだし、金屏風なんて何のために要るのだ。これでたちどころに20万円が節約できた。

 しかし、うちのお得意のものもある。1階にある障害者用トイレは、6畳くらいの面積があり、人工肛門の人たちが気持ちよくパウチの処理ができるような設備もある。9月からは障害者たちで経営する「スワン」という喫茶店もオープンすることになっている。

7月26日

 午後1時半から、国土緑化推進機構の会議。

 その後、船の科学館に行き、海洋文学大賞の贈呈式に出席する。紀宮さまを玄関でお迎えし、それから例年賞の贈呈とパーティーを行うアドミラル・ルーム(提督の間)に移動する。大昔の帆船時代の提督が使っていたような感じの部屋がパーティーの広間になっているのである。

 今年は特別賞に北杜夫さん、大賞に稔航一郎さん、童話部門には佳作だけで受賞作はなかった。稔さんは、受賞の通知を聞いても驚かれなかったそうで、それほど自信があったからなのだそうだ。この作品はノンフィクション、つまり体験記である。人は体験したことなら、誰でもかなり楽に書ける。つまり人は人生に1つは長編を書ける。しかしプロになるには、それだけでは済まない。

 紀宮さまはよく学んでおられて、海に捨てられたゴミについて、私など聞いたことのないような科学的な物質名を挙げて、お話をくださった。


7月27日

 午後、恵比寿のウエスティンホテルで学研の関係者の講演会。財団に立ち寄ってから、6時に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた上総英郎氏の追悼ミサに出た。個人的に親しくおつき合いがあったわけではないが、文学上、長い間目をかけていただいたことに深い感謝を感じている。お世話になった方々が、次々と世を去って行かれることを考えていたら辛くなって、夫人にご挨拶もせず、ミサが終るなりこっそり席を抜け出した。


7月28日

 岡崎市民大学の講演会のため、新幹線で往復。考えてみれば岡崎という駅はなくて、三河安城で降りるのである。帰りの駅の売店で八丁味噌を売ってないかと思って探したがなかった。東京の大学に来ている孫は、東京生まれ、名古屋で数年赤ん坊の時代を過ごし、すぐ神戸に移った。家では関東弁、学校では関西弁を喋る。名古屋の思い出は全く残っていないかと思っていたら、味噌汁だけは名古屋の味が一番、という。そういう記憶は大切なものだ。


7月29日

 日曜だが財団に行く。私が財団で働くようになった時、講談社の鈴木富夫さんが、アッシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を書いてくださった。その額を新社屋の1階広間に掲げた。道からも見える。それを改めて見ていただこうと思って機会を狙っていたのだが、日曜日に病後の晟子夫人の鍼治療に京橋の方に行かれるというので、その帰りに立ち寄って晟子さんにも見ていただきたい、とお願いしたもの。晟子さんと一緒にイスラエルの旅をした財団職員たちも4人集まって、その後ホテルオークラの中華料理で食事。

 私はまた、人気のない財団に戻った。前々から義姉と夫と孫の太一と夕食をオークラで食べることになっていたので、家に帰って出直すのも面倒になったのである。その結果、家にいる時より仕事がはかどった。

 午後6時、今度はフランス料理のテーブルで待ち合わせ。太一はちゃんとブレザーを着ていた。

 暖房設備もない神戸の公立高校で質実に育った彼は、文学で読んだことがあるだけで、食べたこともない料理がたくさんある。それを、何ヵ月かに一度ずつ、食べに行こうということになっている。生のフォアグラを初めて食べて、「おいしい」。スープ、すずき、鴨、お菓子とフルコースをぺろりと義姉の分まで食べた。「家へ寄って、いただき物の鮎を持っていく?」と聞くと、「鮎なんて生れてこの方、ほんの1、2回しか食べたことありませんから下さい」というご挨拶である。私たちはよくあれほど食べたと思っていたのだが、その夜遅く神戸の母親に電話で細かにメニューを報告して「今、少し小腹が空いている」と言った由。


7月30日

 終日、原稿書き。ありがたいことにすぐゲラが流れるように戻って来る。連載中の新聞社も雑誌社も、行先が中国の新彊ウイグル自治区と聞くと、それは大変、連絡の方法もない、と思うから、無理してゲラを組んでくれる。きっと内心では、せめてパリかニューヨークにでも行けばいいのに、と思っているだろう。申しわけない。

7月31日

 8時半、出勤のため家を出る。

 10時、外務省小田野展丈審議官。

 10時半、執行理事会。

 午後1時、中央公論新社の平林敏男氏。

 4時半から駐日ベラルーシ大使より、チェルノブイリの事故のために被曝した子供たちの健康追跡調査を10年以上続けたことに対して感謝状をいただく。大使がわざわざ日本財団まで持ってきてくださった。お金を出したのは日本財団だが、実際に地味な人道的事業が継続できたのは、笹川記念保健協力財団の紀伊國献三先生と槙洽子さんの2人が何十度と現地入りして、準備や交渉を続けてくださったからだ。

 午後5時から常務理事の西澤辰夫氏が任期満了で退職されるので送別の会。女子職員に絶大な人気があった方である。私はその頭脳の働きの端整な鋭さと、性格の誠実さに驚いていた。

 明日は中国へ発つというのに、ますます咳がひどいので、耳鼻科の先生にお電話をして、特別に帰りに診ていただくことにした。最近その徴候が顕著になって来たのだが、やはりアレルギーとのこと。薬をいただいて家へ帰り、荷物のチェックをするつもりだったが、くたびれて「難民は着のみ着のまま、歩き続けても生きているんだから、荷物なんか手落ちがあってもどうということはない」と思いながら寝てしまった。


8月1日

 11時発の飛行機で三浦朱門と関空に向かう。上海行きの中華航空は、午後2時すぎに飛び立つのである。

 国内線の出口に、太郎(息子、英知大学教授)が出迎えてくれていて、そのまま国際線の建物に移り、チェックインカウンターの前で今度の旅行のメンバー19人と会った。英知大学の現役学生とOG、OB、それに武庫川女子大学の学生さんたちである。太郎は武庫川女子大学でも教えているので、その合同の研修旅行だそうだ。中国の一番西端まで行く22日間の大旅行は、個人で行くのは無理である。

 学生さんたちの負担を軽滅するために、太郎は中国領に入ってからは、往復とも地上で移動する旅程を立てていた。上海から急行寝台で2泊3日でトルファンに着く。そこからバスで移動を始め、8日目にカシュガルに着く。帰りもカシュガルから再び上海まで列車である。それだけの旅程で払った旅費は、たった26万円だった。

 学生さんとOG、OBの他には太郎夫婦と、任書煌(レン・シュウファン)先生ご夫妻。お嬢さんは英知の学生だが、先生は日本生まれのドクターである。それと私たち夫婦。ドクターにとってはご先祖さまのお国で、しかもシルクロードをこれほど奥まで入る企画はめったにないうので参加してくださったらしいが、私はドクターつきの旅行になってほんとうによかった、と功利的に喜んでいる。毎年のように、学生さんは病気になり、夜になってから太郎がつき添って土地のお医者さまに行くことがあるという。僻地では注射器が使い捨てかどうか気にしなければならない所もあるだろうし、どんなに心強いことか。

 上海へ着いて、皆は早速最初の夜の食事に町へ出て行ったが、私は飛行機の中で出されたサンドイッチの食べ残しをハンドバッグの中に入れて来ていたのを食べて寝てしまった。

 旅に出ると、夜はほとんど遊ばない。それが私のように特に体力もなく、若くもない者でも、病気をせず、昼間どうやら人並みに活動できるこつなのである。

 昔から旅に出る前は、いつも疲労していた。旅に出ると休まるとおっしゃった小泉首相と同じだ、とおかしく思いながら幸福な思いでベッドに入った。首相はジェノバ・サミットに出席された時「(飛行機に乗ってからむしろ)ゆっくり休めた。体調はきわめていい」と却って旅に出た方がラクだという意味の発言をされていたのである。


8月2日

 午前中に博物館を見て、午後、フランス系のカルフールというスーパーマーケットで買い物をした。

 上海までが東京から約2千キロ。上海から西端の目的地カシュガルまでが5,460キロ。途中バスで迂回するので今回の旅の総移動距離は1万7千キロを超えるだろう。

 さしあたり列車に乗るのは、トルファンまで49時間。その間に必要そうなものを整えるのである。

 私が買ったのは、4リッター入りの水。ハエ叩き1本。殺虫剤1本。キャンデー2缶(約1キロ)。バケツ2個。

 列車はグリーン寝台で1部屋4人。太郎夫婦と私たち夫婦である。部屋は清潔で、重い魔法瓶にお湯が2本。塵箱も備えてある。廊下の突き当たりには大きな湯沸かし器も設置してある。

 18時5分、予定より2分早く、列車は上海駅をゆっくりと走り出した。
 

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