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夏休みに中国の西域を旅行している間に、8月13日、小泉首相は靖国神社に参拝された。終戦の記念日が8月15日だとわかってはいても、私は昔から片寄った性格のまま小説家になったので、正直なところ15日と13日とそんなに違いはないだろう、と内心では思う。総理大臣という立場は、それをはっきり示さねばならないのだろうが、私はそういう形式的な発想についていけない。とにかく総理が戦死者をきちんと弔うという姿勢を示されただけでも、大変よかったと思っている。
私は昔から、身内の者のことでも、記念日を厳密にする意識に恐ろしく欠けている。自分の結婚記念日など思い出すことは何年に一度である。父母たちの命日も、その日に墓参りに行かねばとは思わない。大切なのは、常日頃、その人たちの存在から私が現世で受けた影響に対して感謝し、身内だけがいとおしむことのできる彼らの生涯を、時々深く考えることだ、と思っている。
それを靖国の問題に置き換えれば、戦死者たちのことを覚えていることが大切なのであって、日にちは大した問題ではないと思う。大東亜戦争による300万人に近い戦死者を本当に悼む人だけが、本気で戦争を避けようと思うものなのだ。もう一度、あれだけの人が死ぬようなことがあってはいけない、と実感し、その若くして閉ざされた生涯に悲しみを持つからこそお参りに行くのである。
今回、総理の靖国参拝を反対した閣僚が数人いた。そうした人たちの哲学のなさ、他国におもねる卑怯さがはっきり出てよかった面もある。こうした政治家に、日本の運命を預けることは恐ろしいことである。
若い子供たちに、本当に戦争を理解させることはむずかしいだろう。過去の戦争を語り継ぐことなど決してできるものではない。自分の体験を振り返ればいい。私の子供の時、日清・日露の戦争に行った大人たちがいた。そうした人たちの苦労話は、聞いているふりをしていたが、少しもしみ通らなかった。
しかし現代の戦争なら子供たちも理解する。あちこちで起きる地域紛争のニュースを見ていれば、家を焼かれ、財産を失い、食べ物もなく、何キロも何十キロもボロ靴をはいてぬかるみの中を歩いて避難する難民の姿を嫌というほど知る。冬になっても破壊された家には暖房もなく、学校の再開のめども立たない。戦争をしたら確実に不幸になることがわかる。語り継ぐなどという古臭いことより、今そこにある現実には、震え上がるだろう。
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