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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 途方もないこと?夫にもう1人か2人妻がいて  
コラム名: 自分の顔相手の顔 464  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2001/09/04  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   この8月、中国を列車で横断して、新彊ウイグル自治区まで旅をした間に、何度か忘れられない感動的な瞬間があった。

 私たちはまず上海からトルファンまでの49時間寝台列車に乗ったわけだが、夜眠っている時間を除くと私はほとんど車窓を見ながらノートを取るか、切れ切れの読書を続けた。以前、再処理済みの核燃料を積んでフランスから日本まで無寄港航海を果たした「あかつき丸」の乗組員から、1時間単位で取った私的な記録を資料として借り受け、私はそのおもしろさにすっかり魅せられたことがあった。それを見習って、今度の旅行ではかなり緻密な記録を取ることができたのである。

 8月8日午前11時少し前、私たちの乗った列車は西安市を過ぎた。外気温は既に35度。列車速度は時速112キロ。13時、宝鶏市を過ぎると間もなく左手に黄河の支流である渭河が見えた。大地よりもっと純粋の泥色である。この辺りから、持っていった高度計が少しずつ上がり始める。トンネルも増える。15時20分、天水市。気温38度。18時15分、高度1700メートル。何もかも泥色一色の世界。家も、道も、畑も、たまに歩いている人も泥だらけである。

 しかしやがて夕映えが来た。泥色の岡も、村もピンクに染まる。ポプラは真っ直ぐに天に向かって梢を伸ばし、銀葉を閃かす「木の篝火」のように見える。

 19時35分、まさにその夕映えを表すのに格好な赤土の目立つ紅崖という小駅を通過した。村は、落日に塗り上げられていた。中国はどこでも北京時間を使っているから、西へ行けば行くほど夏はなかなか日が暮れない。

 紅崖のはずれの一軒の家は泥の塀を巡らして、中庭の周囲に部屋が並んでいるらしいが、人の姿もなかった。夕刻だけ一瞬泥色から解放されて茜色に染まっているという感じである。近隣に家も見当たらない。

 ふと、私は途方もないことを考えた。

 こんな田舎に住んで、夫と妻だけというのでは淋し過ぎる。もちろん現代の中国では、昔のような家族関係は誰も考えないだろう。しかし私が妻なら、夫にはもう1人か2人妻がいて、子供たちも、この中庭で数人がいっしょに遊べた方が淋しくなくていいと思うのではないか、という気がしたのである。もちろん私は夫の複数の妻たちに嫉妬し、絶えず腹を立て、地獄を体験するのだが……夫の妻の1人が死んだら、その時は心から泣くのではないか、と思ったのである。
 



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