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≪ 「ラオスの京都」 ≫
この国の首都ビエンチャンで「ラオスに来たのなら是非ルアンパバーンに行きなさい」と勧められた。ラオスは海がないだけでなく鉄道もない国だ。バスで行こう、と言ったら11時間もかかるのでご用とお急ぎの向きはダメだと言われた。
北部山岳地帯の入り口にあるこの町までメコン川を舟で遡るのもオツなものだと思った。だが、週に1便しか就航していないとのことで結局、飛行機にした。それでも週4便しか飛んでいない。乗ってみたら1時間余りで、あっけなく着いてしまった。
緑の濃い山合いに、この町はひっそりとたたずんでいた。昔はラオス王国の首都であった。ビエンチャンで傭ったラオ語?日本語の通訳、クァン・トン君によれば「ルアンは“大きい”、パバーンは“仏像”を意味します。2キロ四方の狭い町に、お寺が80もある」とのことだ。
日本に技術研修留学の経験のある彼は、「ラオスの京都か奈良に旅行したと思いなさい」と言う。ものの本によると中国の四川省や雲南省にいたタイ系ラオ族が唐に追われ、徐々に南下し8世紀に、ここに集結、大集落を作ったという。14世紀にはランサン国王の王朝となり、カンボジア王国から小乗仏教を輸入した。その後、ビルマの脅威が高まり、タイに庇護を求め、現在のタイ国境のメコン川東岸のビエンチャンに遷都した。
ルアンパバーンの朝は、とりわけ早い。ニワトリの声で目を覚ます。朝霧の中、ホテルの裏手の寺院から読経が聞こえてくる。散歩がてら寺をのぞいてみた。30人ほどの黄色の僧衣をまとった坊さんたちが、床に正座して読経をしていた。起床は朝4時半、水浴びと清掃から日課が始まるという。読経ののち、托鉢に出かける。食事はすべて托鉢によって賄われる。僧侶は通常、おカネを持たないことになっているから、食事のメニューは托鉢の成果次第だ。
カメラ片手に托鉢の後に従ってみる。いくつかの寺の僧が街角に集合、隊列を組んで托鉢に歩く。全員裸足だ。竹製の弁当箱様の器に山盛りにした炊いたコメ、野菜、漬け物、バナナ、リンゴetc。早起きした市民たちが食事の喜捨をする。リンゴは中国からの輸入品だという。
塩や醤油、食用油や、マッチもある。この目で確認したわけではないが、焼き鳥らしきものもあった。「憎は菜食主義のはず」と後刻、通訳のクァン・トン君に聞いたら、「仏教は殺生は禁じているが、他人が殺したものなら食べてもよいという解釈もある」とのことだ。タバコを吸う僧もいるそうだ。
「昔は、男子は一生のうち一回は仏門に入るのが義務だったが、いまはそんな決まりはない。でも仏教はラオス人の生活に、いまでも深く浸み込んでいる」。これもクァン・トン君の解説だ。
ルアパバーンは1994年町ぐるみユネスコの世界遺産に指定された。戦禍を免がれたおかげで、宗主国フランスが傀儡政権のために設計した20世紀初頭の白亜の王宮。500年の歴史を持つラオス一の美しい寺といわれるワット・シエントーンの黄金の壁。これに青や黄のペンキを塗った2階建の古い家並みがよくマッチしている。
観光客が途絶えることはない。2000年に欧米や日本からラオスにやってきた観光客は15万人、ほとんどの人がルアンパバーンが、お目当てだという。「Lao Red Cross」(ラオス赤十字社)の看板を見つけた。世界遺産指定以来、外人観光客用に新設された英語を話す診療所だ。「Steam bath とMassageのサービスあり」と看板に書かれている。試しに中に入ってみた。ハーブの薬草入りのスチームバスが1万キップ(150円)、マッサージが1時間で3万キップ(450円)だった。
≪ 原チャリに乗る女マッサージ師 ≫
赤十字の診療所にしては、東京の終戦直後の銭湯のように床板は、汗とアカのぬめりが積もっており、快適とはいえない。タオルも不潔で洗濯はしているものの醤油で煮しめたような色をしている。それでも西洋人の男女で賑わっていた。外科の看護婦だという中年の女性が、タイ式の強いマッサージをやってくれた。
「赤十字の給料は公務員並み(月給30ドル)で安い。だからサイドビジネスとして、みんなでマッサージ業を始めた」
たどたどしい英語で彼女はそう言った。
古都ルアンパバーンでマッサージにかかるとは、私にとって全く予想外の行動だった。同行のラオス通、関晃典さん(笹川平和財団常務理事)に聞くと、この国は旅行者にとってタイに次いで、マッサージが人気を博しているのだそうだ。隠れた観光資源? と言えよう。
ビエンチャンの尼寺にも「ハーブバスとマッサージあります」の看板があった。なぜ、ラオスでタイ式マッサージが盛んなのか、その由来ははっきりしない。「多分、バンコクでの盛況に刺激され、手軽に現金を稼げる新商売としてこの国の市場経済化とともに導入されたのではないか」と関さんは言う。
ビエンチャンに戻り、もう一度、マッサージ屋を探訪する。市内にはマッサージ専門店が3軒ある。お得意さんは、日本人と現金をたくさん持った現地人の闇成り金だ。店先に新品のホンダのバイクが数台並んでいた。クァン・トン君に聞くと「これ全部、マッサージの女性の持ち物です」と言う。
1人当たり国民所得が年間150ドルのこの国の人にとって「ホンダ」はステータス・シンボルだ。バナナシートの「Honda Tena.110cc」が、現地で組み立てられている。排気量の小さい“原チャリ”クラスのミニ・バイクが1台1400ドルもする。彼女たちはこれをさっそうと乗り回している。
「彼女たちの収入は、月に120ドルはある。お金持ちです」。彼の計算によるとマッサージが1時間で1人3ドル、これを店と4対6で分ける。6がマッサージ嬢の収入だ。1日、5〜6人やれば、チップを含めると月収120ドルは固い。稼ぎを貯めて田舎に家を建てたマッサージ嬢もいるという。クァン・トン君も最近、同型の原チャリを購入した。
「ラオスに消費者金融なんていうものはない。現金の一括払いです。足りない分は親戚か友人に借りる。コネクションを探すとお金持ちは必ずいる。そこがこの国の経済の変なところです」と彼。公務員の平均月収が30ドルという数字に象徴される“公式経済”に匹敵する“地下経済”(政府が捕捉できない商取引や闇所得)が存在しているのだ。
≪ ラオス国が微笑んでいられない事情 ≫
ラオスの経済は極めて貧しい。
隣国タイへの電力の販売、コーヒー栽培(旧ソ連時代の借金の代物返済に充当されている)、木材くらいしか輸出品はない。コメと野菜はかろうじて自給自足だが、食料・雑貨はタイからの輸入に頼っている。標高700メートルの高地にあるルアンパバーンの空港の売店に、奇妙に膨れあがった袋入りのスナック菓子が並んでいた。タイ製のカッパエビ煎だった。標高ゼロメートルのバンコクから陸路、ここまで運ばれるうちに、気圧の関係で袋が膨張したのだ。外貨不足のラオスがどうして高い輸送費を払ってまで、こんなものをはるばるタイから輸入しなくてはならないのか。
私はこの袋を手にしつつ、ラオスの経済の脆弱性について思いをはせたのだ。そして1つの仮説を立てた。この国が袋小路に位置し、海外との交易のすべてが他国の領土を通過させてもらわねばならぬ、という宿命を負っている故ではないのか??というものである。
ビエンチャンで再会した工藤憲夫さんに、私の仮説を披露した。工藤さんは、丸紅のビエンチャン出張所長時代、ラオスに魅せられ、退職後も単身で現地にとどまり、ビジネスとボランティア活動をやっている。
「その説、私も賛成です。その証拠をお見せしましょう」。工藤さんが案内してくれたのはタイ国境を流れるメコン川に、94年に建設された初めての橋、「友好橋」(全長4500メートル)であった。ここで不思議な光景に遭遇したのだ。タイ側には鉄道があるが、ラオス側にはない。それだけではなく、ラオスもタイも車が相互にこの橋を自由通行できない仕組みになっていたのだ。
ラオスの輸出品はタイのノンカーイにあるトラックヤードでタイの車に積み替え、バンコクの港から海外に積み出される。ラオスの輸入品もタイの車からラオスの車へ。交通経済学の見地からみれば、こんな変てこな話はない。
タイは右ハンドル、ラオスは左ハンドルだからというもっともらしい説があるが納得がいかない。工藤さんが声をひそめて教えてくれた。「実は利権がからんでいるんです。荷物の積み替えから発生する巨額の収入はタイの軍部が握っている」と。
観光案内書には「微笑みの国ラオス」となっている。たしかにこの国の人は素朴で人懐っこい。でもいったん外に目を向けると“袋小路の国”ラオスを取り巻く、地政学は厳しい。この国はいつまでも微笑んでは、いられない事情をかかえている。
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