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著者: 山田 吉彦  
記事タイトル: 瀬戸内海とマラッカ海峡  
コラム名: マラッカ海峡の町から 第8回  
出版物名: 海上の友  
出版社名: (財)日本海事広報協会  
発行日: 2001/09/01  
※この記事は、著者と日本海事広報協会の許諾を得て転載したものです。
日本海事広報協会に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど日本海事広報協会の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  現代の海賊には「海の民」の誇りもロマンも感じられない

 この夏、2つの海を訪れる旅をした。

 ひとつは、尾道から今治にかけての、「しまなみ街道」の瀬戸内海の旅。もうひとつは、シンガポールを起点にバタム島からインドネシアの島々を巡るマラッカ海峡の旅である。

 瀬戸内海とマラッカ海峡は似ているところが多い。狭い海峡に数え切れないほどの島々が点在し、濃い緑色の影を海面に映し出している。

 この2つの海峡は、人々の暮らしにおいても共通しているところがある。海上には小さな船を操り、漁をする人々の姿があり、浜辺には寄せ来る波と無邪気に戯れる子供たちがいる。

 海に生まれ海に生きる人々の「生活の海」がここにある。そして「海の民」は、長い歴史の中で生きてきた。


≪ 瀬戸内海「海の民」村上水軍 ≫

 日本で海に生きた人々のひとつの象徴として村上水軍がいる。室町時代から、戦国時代にかけて、瀬戸内海を制し海に君臨した海賊衆、それが「村上水軍」である。一口に村上水軍といっても、三島村上と呼ばれるように三つの島に分かれて本拠を置いた三家の連合体である。

 惣領格は知将として名高い村上武吉率いる能島村上であり、そのほか、毛利、小早川両家と密接な関係を持つ因島村上、瀬戸内海航路の要衝、来島海峡を治める来島村上である。

 陸の大名たちが戦乱に明け暮れた戦国時代、三島村上は、能島村上を中心に一族の力を結集し、瀬戸内海の覇者の地位を確立した。

 村上水軍の主な収入は、警固衆と呼ばれる水先案内と航行安全の保証業務であった。戦国期には、帆別銭や駄別料といった支配海域内の通行税を取っていた。

 1413年には山名氏の遣明船の警備を担当し、遠く中国大陸まで航海している。そして、海賊衆は、海外との貿易にも乗り出していた。海賊衆が信仰した大三島にある大山砥神社残された連歌の中にも海を越え交易のため異国の地を訪れたことを歌ったものもある。海外貿易も村上水軍の重要な財源であったようだ。

 三島村上が袂を分かつのは、戦国時代も末期、毛利と織田の対立が決定的なものとなった時であった。来島村上は羽柴秀吉の求めに応じ、一族ともに織田方につくことを主張し、能島、因島の両村上は、毛利勢に残る決意をしていた。

 クライマックスは天正10年(1582年)、織田方の味方につくために東行きする来島衆に対し、能島、因島衆も船団を出し海上で対立し、引き分かれるという事態となった。この時から、村上水軍は分裂し、その勢力も弱体化していった。

 天正16年(1588年)豊臣秀吉の海賊禁止令により海賊衆は海上からその姿を消し、歴史の表舞台から退いていった。

 三島村上の中で徳川幕府の下でも唯一大名として生き残ったのは来島村上である。しかし、その領地は海から遠く離れた豊後の森へと転封となリ、村上水軍は海に思いを馳せながら幕藩体制に組み込まれていった。


≪ マラッカ海峡はインドネシア社会の矛盾 ≫

 マラッカ海峡では、いまだに海賊が出没している。歴史上ではパレンバンの王朝が村上水軍と似た形で通行料のような税を武力で取リ立てていた。また、ヨーロッパの植民地化されていった16世紀ごろ、ヨーロッパへの抵抗として交易船を襲う海賊たちが活動していた。

 現代のマラッカ海賊は、インドネシアの広がる貧富格差の中、社会の矛盾の一端としてあらわれている。しかし、現代の海賊はただの海上窃盗団でしかない。そこには、「海の民」の誇りも、ロマンも感じられない。

 マラッカ海賊たちには「海の民」としての本来の生活に一日も早く戻ってもらいたい。おだやかなマラッカ海峡はアジアの願いである。
 



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