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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 夫の姿なく  
コラム名: 私日記 第21回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/09  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年6月12日

 朝、ヨハネスブルグのカトリックの黙想の家を出発するために、我々アフリカ調査団の荷物をバスに積み込む。今日初めて根本昭夫神父のほんとうの仕事場であるボックスバーグの聖アントニオ教育センターとエイズ患者のための施設を訪問してから後、そのままヨハネスブルグ空港へ行ってケープタウンヘ発つ予定である。

 教育センターではブラックの青年たちに、大学資格試験をとるための教育をしていた。大学を出ないと、南アでは「一生芽が出ない」という感じなのだそうだ。それというのも日本よりもっと就職口が少ないから、大学を出ていないとほとんどまともな仕事にありつけないのである。しかしブラックの青年たちの中には、家庭が勉強に向いていないこともあって、なかなか資格試験に通らない人たちが多い。

 それからエイズの孤児たちの幼稚園に寄った。根本神父も医師ではないから、初めは両親が死んで孤児になった子供が、せめてHIVマイナスでいてくれるかと思ったらしい。しかし多くの子供たちが既にプラスであった。ここに集められている子供もすべてプラスの子供ばかりである。免疫力がないから実に弱い。親を失って、数年のうちには子供も死んでしまう。幼稚園を作ることについても、神父は「小学校まで生きる子供もいるかもしれませんから、学校のことも考えなければならないんです」という言い方をしていた。

 幼稚園児は7人ほど。中に先月母を失って以来、全く笑わなくなった女の子がいる。この国だけでなく、一般に南米でもアフリカでも、母と子の繋がりは深くても、父親の存在は不明な場合が多い。たった一人寄り添える存在は母だったのに、その母が消え失せたのだから、この子にしたらもう何も笑うことがなくなったのだろう。そしてもしこの子供たちも数年で死ななければならないとしたら、この子供たちの短い人生には「全く何一ついいことはなかった」と言ってもいいだろう。

 しかし抱き上げてみたら、ずっしりと重いので、私は少し安心した。

 今度の目的の一つは、根本神父から私の働いている海外邦人宣教者活動援助後援会に対して申請の来ているたくさんのエイズ患者のためのプロジェクトに対して、まず手始めに建築費を出した霊安室の完成式に出席することと、今後何にお金を出すべきかを見ること、である。

 お昼少し前から霊安室のオープニング。渡された式次第には「オフィシャル・オープニング」と書いてあるので、「オフィシャルというのはどういうことですか」と尋ねると、実は一昨日に3人が亡くなったので、もう既に使ったとのこと。思いがけなく日本大使・畠中篤氏もおいでくださって、30人ほどが小さな霊安室の前に集まった。皆で『アメイジング・グレイス』を歌い、代表として私が入り口に嵌め込まれた銘板の前のカーテンを引き、鍵を受け取って霊安室に入る。小さな祭壇の前の大きなロウソクに灯をともして、そのすぐ傍のドアを開けると、中には8体の遺体が入る立派な冷蔵庫になっていた。

 式を終わって少し寡黙でいたいような気分になって、霊安室からほんの30メートルも離れていない、同じ敷地内のエイズ患者のホスピスに行った。ブラシの木の赤い花が咲いていた。庭に置かれたガーデン・チェアに数人の人が「談笑」していたが、それが後で聞くと患者たちであった。今15歳から45歳までの28人が入院しているが、先月は、32人が死んで30人が入って来たという。ここへ来る人はほとんどすべてが死ぬ他はないのである。

 そこで看護婦さんのシスターから簡単なエイズの知識を教わる。南アでは患者1人に日本のような高額の医療費をかけられないから、ここでも抗ヴィールス剤などは与えず、コカインなどの対症療法だけ。粘膜がすべてやられるので、口内炎から始まって食道炎、気管支炎を起こし、激しい下痢が続く。一月に10キロも13キロも痩せる。

 その後で、教会の信者さんたちが用意してくれた食事をいただいた。修道士たちも明るい。私の隣席の髭のブラザーは、反対側にいる神父が山盛りのパスタをお代わりするのを見て、私に「彼はイタリアに留学して、パスタを食べることを学んできたんだ」とつげ口をした。

 夕刻、ケープタウンの海辺のホテルに入る。近くに一大ショッピング・センターが出来ていた。

6月13日

 朝、幼いイエズスの姉妹会(プティト・スール)と呼ばれる修道会に属するシスター・ガラシア暁子に会う。初対面だが、彼女が海外邦人宣教者活動援助後援会に対して申請して来ている1万ドルは、現場で私が納得をすれば渡せるように、私は現金で100ドル紙幣を100枚預かって来ていて、ずっと持ち歩いていたのだ。幼いイエズスの姉妹会は、決して直接の布教はしない。ただその地域で、最も給与も労働条件も悪い(いわゆる3Kの)仕事に就き、それで数人が生活しながら地域の人たちの慰め手になる。その人の生き方そのもので、キリスト教徒としての姿を表す、という修道会である。

 シスターが関係しているのは、「カトリック・ウェルフェア・アンド・デベロップメント(CWD)」というグループで、いろいろな仕事をしている。

 その日、私が最も心を打たれたのは、家庭で最期のステージを迎えているエイズの末期患者であった。私たちのグループに厚生労働省のドクターがいるので、辛うじて見舞う口実ができたようなものである。私は同行者から、最後に隠し持った(?)飴などを供出させて、小さなプレゼントの袋を作り、その中に僅かな現金を入れた。お見舞いのお菓子だと言わないとお金だけでは渡しにくかったからである。

 ここでも女性患者たちの周りに、夫の姿はない。

 病人の1人はローンで建てたという家に子供たちと親戚の人といた。痩せ衰えて、黒ずんだ頭骸骨が黄疸の出た黄ばんだ皮を被っているという感じだった。お菓子の袋を渡し握手をした時、彼女は少し笑った。死は恐らく数日のうちに迫っているというのだから、努力して笑顔を見せてくれたのだろう。

 2人目の病人の家では、私はもうベッドに近づかなかった。ドクターだけがゆっくり病人と語る時間を持てばいいと思ったからだ。家の中はきちんとしたものだった。テレビも冷蔵庫も洗濯機もある。お鍋の数は、間違いなく我が家より多い。

 シスターがこの病人の大まかな状態を話してくれた。40代だというこの女性も、夫はどうなっているのかわからなかった。病気が出た後、彼女は子供たちと暮らしていたが、どうにも生活できなくなって、母親の元に転がり込んだ。

「だからここのうちはお母さんの家なんですよ。電気製品が揃っているでしょう。たいていの病人はすぐテレビを売り、冷蔵庫を売りして食いつなぐから、ほんとうは残っていないはずなんです」

 しかしその母も、決して優しくはなかった。母は病気を恐れて娘を棄てて家を出てしまったのである。激しい下痢が続いて夜通し襁褓(おしめ)の始末をしなければならない彼女の看護は、4年前から始まったCWDのボランティア組織が引き受けている。59人の女性と、1人の「勇敢な男性」がそのメンバーだと説明された。勇敢な、というのは、病気を恐れないというより、59人もの「猛女」の中に1人で入って来た男性という風に聞こえた。

 その間に私は、CWDの代表のニュージーランド人のシスターに会い、暑いバスの中でこっそりと1万ドルを手渡し、受け取りを貰い、今後の方針を相談した。この1万ドルの使い道は既に詳しく申請書の中に書いてあるので、東京の運営委員会で承認されていたものである。今回は認可と評価を同時に行なったのだが、シスター・ガラシア暁子が今後の事業評価は見てくれるだろう。

 昼過ぎ、ホテル帰着。喜望峰に行く人たちを見送って、私はホテルに残る。棟続きのショッピング・センターに行って、本屋を見たが大した本もない。それでもプロテアの本を買えた。すぐホテルの部屋に戻って少し原稿を書いた。

 夕食後、私の部屋でお別れの飲み会。まだお摘みがどこかに隠してあった!


6月14日

 朝10時半、ケープタウン発、ヨハネスブルグヘ。14時少し過ぎ、シンガポールヘ向けて飛び立つ。昨夜からあまり眠らないようにして時差の解消を始めていたので、飛行機の中で、まあまあ眠る。

 
6月15日

 朝6時少し過ぎ、シンガポール着。町中の全日空ホテルに入る。最近、エコノミークラス症候群という血行不良の病気が取り沙汰されて来たので、シンガポールで約12時間、ベッドに寝たり歩いたりしてもらって、その危険をなくそうというわけである。

 陳勢子さんに会い、お昼ご飯の飲茶の場所を聞く。おいしくて安いレストランに無理やり16人分のテーブルを予約しておいてもらっているのである。

 私はその後、ホーランド・ヴィレッジの知り合いの美容院に行き、髪をきれいにしてもらった。ほんとうにさっぱりした。これで東京に着いて、すぐ休める。

 夕食は、海鮮料理。これだけはこの旅行唯一の私個人のご招待。生きた蝦やスンホクという魚や渡り蟹のチリソースなどを取り、デザートには、若者たちにタロとヤムのふかし薯にココナツミルクをかけたものを食べてもらう。この2つを知らなくては、地球上の食糧政策を語ることはできないだろう、と思われるからだ。以上の豪華メニューで一人前3500円。

 夜半近く、成田に向けて2晩目の夜行便に乗り込む。


6月16日

 朝7時、成田着。飛行機の車輪が地上に着いた瞬間、今回も感謝のお祈りを捧げた。何かあっても致し方ないのが人生なのに、今回も無事に帰れた。

 夕方、整体の先生に来て頂く。飛行機の長旅の後は背骨がちょっと歪む。体が少し痛い。年だもの仕方がないさ、と夫の慰めの言葉。


6月19日

 日本財団へ出勤。

 9時半、面接試験。11時半、賞与支給に当たって短い挨拶。

 12時、昼食をとりながら執行理事会。

 午後2時〜4時。海上保安庁政策評価懇談会。

 午後5時、大れい子さんが財団に来てくれて、そのまま三戸浜へ。海風でほっとする。


6月20日〜25日

 三戸浜滞在。

 20日午後、クライン孝子さんのご子息のヨウ君が、ガールフレンドと来訪。NHKの実習を終えたところだという。ガールフレンドのウーリケさんは、ポーランド系の美人。2人共納豆以外は何でも食べる。ウーリケさんに塩焼きというものを教える。こんな簡単な料理法はないのに、日本以外で食べたのはトルコだけ。

 ヨウ君の話によると、ヨーロッバではずっと牛肉を食べていない。鶏か魚だというので日本の牛肉のステーキも出した。

 三戸浜ではいつも、少し畑のことを考える。花の色が悪くなったり、枝が伸びない時に、徴量元素の不足を考えなければならない、ということを知る。石灰を撒いていただけではだめなのだ、ということ。人間も同じだろう。ミネラルが不足すると、体が「不調」になるに違いない。

 私は今までに随分ばかな失敗をした。10メートル以上はあるカナリー椰子の根本から、のうぜんかずらを這い上がらせた。そのため幹の逞しさがすっかり見えなくなってしまった。今年思い切ってのうぜんかずらを切った。これで椰子は再び清々しい幹を見せる。

 留守中に巨大なピンクのプロテアが咲いた由。


6月26日

 10時から日本財団で執行理事会。

 その後、少し留守をしていたので、お客さま多数。その間に、来月半ばの社屋引っ越しのために、部屋の中の整理をする。もともとあまり物をおいていないが、頂いた本や書類の始末が少しある。しかし性格的に棄てるのが実に早い。夜、線路向こうの友人の家で会食。


6月27日

 昼過ぎまで執筆。その後、車で平塚の東海大学湘南校舎に行く。公開講座のため。暑い日。すばらしいキャンパス。


6月28日

 東京バレエ団の『ドン・キホーテ』を見せて頂く。ご招待を受けながら、厳しい批評は礼儀に欠けるのだろうが、私は日本のバレエに少し失望した。

 技術はしっかりしている。こんなにも日本人の体が美しくなり、踊りもうまくなったのかと思う。

 しかし踊り手に人生の解釈がほとんど見えないのだ。きれいにぴょんぴょん跳ねても、それがどうした、と思う。どの演目もそれでは同じになってしまう。踊りに厚みが出ないのは、ダンサーたちが多分文学を読まないからだ。人生の悲しさがわからないからだ。もっと背後の勉強が要る。

 私の傍の熱烈な男性ファンが「ブラボー」を連発すると、やはり少し気になる。女性ダンサーのソロには「ブラヴァ」、もし複数の人に賛辞を送るなら「ブラヴィ」にした方がいいんじゃないかな、外国人の客もいる席なのだから、と思う。もっとも私の友達によれば、日本では何でもかんでも「ブラボー」なのだそうだ。「ブラボーはつまり日本語なのよ」というわけだ。それなら「いいぞ!」とか「えかった!」の方が折り目正しい表現なんじゃないか、と思う。


6月30日

 朝7時、朱門が車で羽田まで送ってくれて(土曜日だから空いてるだろ、というわけ)大阪へ。大阪府看護協会の講演を済ませて、阪急インターナショナルホテルヘ。夕方、太郎(息子)と暁子さん(太郎の妻)が来て、いっしょにてんぷらの夕食。8月からでかける天山南路の旅行について少し打ち合わせ。


7月1日

 午前中に京都に出て、生命尊重の会の講演会に出た。「生命というものは卵が子宮に着床した時から発生する。それゆえ、中絶は殺人行為」と私は思っている。しかしそれだけのことも、恐ろしくて言えないのだそうだ。なぜだろう。

 もっとも中絶した人を非難してはいけない。今度は産めるように社会が整えて行くだけだ。

 夜6時半、新横浜着。

7月3日

 日本財団で10時に執行理事会。
 
 その後、数組のお客さまがあってから、財団のホームページ用のインタビューを受けた。

 2時半から、先日のアフリカ行きの帰国報告に、厚生労働、国土交通、農林水産の各省を廻ってお礼を申し上げる。参加者はもともと優秀な人たちなのだから、あれだけの違った世界に放り込まれれば、一廻り大きくなって、複雑な考え方ができるようになるのは、眼に見えている。

 夜は、昼間会った人たちも加わって「アフリカ旅行反省会」。何を反省するのかはさっぱりわからないけれど、これだけ皆が親しくなれたのは将来の財産。


7月4日

 昨日、先方のご都合で行けなかった文部科学省への挨拶。その後で日本財団の広報の人たちと木場にある日本カトリック会館に行き、アフリカで撮ったヴィデオに音を入れた。

 終わって東京会館で早乙女貢氏の30年をかけた大作『会津士魂』の完成を祝う会。早乙女氏とは昔よく文春の講演会にごいっしょした。数えてみると、あのころからこの仕事に専念しておられたのだ。

 7時に名古屋の平田国夫先生と国立名古屋病院の内海眞先生にお会いし、吉村作治先生の経営されるエジプト料理店「パピルス」へ行く。内海先生からケニヤのエイズについて伺う。先生はここのところずっとケニヤの人たちに、エイズ予防の指導方法を教えておられる。エイズとの戦いは、21世紀前半のもっともむずかしい目標になるだろう。解決の前に第二次世界大戦よりもっと多くの人が死ぬだろうという気がする。


7月5日

 午前10時から生命倫理専門調査会。

 午後1時半、NEC関本相談役。

 夕方6時、サハラ縦断の仲間が集まって自由が丘の「与喜」で食事。


7月6日

 朝7時上野発の列車でいわき市へ。「東北七県町村教育委員会連合会教育委員・教育長研修会」で講演。

 締め切りがあるので、終わるとすぐに帰る。温泉を横目で見て帰るのもみじめなものだ。


7月7日

 夏の天山南路行きのために、神田の三省堂で関係の本や地図を買い、デパートヘも立ち寄る。デパートはセールも終わりに近く「もう少し早く来て下さればいいものも残っていましたのに」と言われる。買い物が義務感になって慌てて行くのもみじめな話。


7月8日

 東京駅前の八重洲富士屋ホテルで私の実家の方の「いとこ会」。一族にはホテル経営者が多い。食事の時、すばらしいステーキに「お醤油も持って来て」などと勝手を言う人もいる。嫌な客だろう。

 父は八丁堀の生れで、私は自分のことを「東京土人」「東京原住民」と思って楽しんでいる。土人や原住民という言葉がどうして差別語になるのか。私の知っている祖父の時代から数えても、もう四世が当主の時代になっている。皆善良で力強い市民ばかり。


7月9日

 朝から仕事。午後、渋谷にまた足りないものを買い足しに行った。


7月10日

 10時、日本財団で執行理事会。官庁から新しいポストに着かれた方々のご挨拶を何組か受ける。午後、国際部の案件説明。

 2時半から集英社のインタビュー。この年になって初めての歴史小説『狂王ヘロデ』を最近集英社から上梓することになった。イエスの時代を勉強していたら、自然にヘロデの顔も見えて来たのである。
 



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