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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 自分に関する噂  
コラム名: 連載・生活のただ中の神  
出版物名: 聖母の騎士  
出版社名: 聖母の騎士社  
発行日: 2001/04  
※この記事は、著者と聖母の騎士社の許諾を得て転載したものです。
聖母の騎士社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど聖母の騎士社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昨日も私は1通のみ知らぬ人からの手紙を受け取ったところであった。名前も内容も、私は努めて忘れるようにしている。作家という特殊な立場だけで知り得た或る人生の、別にこちらから聞き出そうとしたことではないにしても、もしかしたら秘密に属するようなことをいつまでも覚えているということは、何となくフェアーでないような気がするからである。

 そうした手紙の多くに共通するのは、悔しさと悲しさであった。自分がしてもいないこと、感じてもいないことについて、全く誤解されることを訴えているのである。誤解する相手は、同級生であったり、本家の嫂であったり、仕事場の同輩先輩であったりする。最近では老人ホーム内での人間的な対立や葛藤もあるようになったが、それはやや数は少ないように感じられる。

 どうして少ないかというと、年取ってもう誤解を解くだけの体力が残っていない場合もあるだろうが、長い人生の間に、誤解くらいどうでもいいと、居直る術を覚えた人もいるだろう。

 ほんとうに人は、思いもよらぬことを他人について言うものだ。昔私が立てられた噂でもっともおもしろかったのは、私の家には、たくさんの借金がある、ということだった。私の家には借金だけはないのである。お金があるからではなく、夫が借金でものを買うのを嫌うからである。他人から見てむだなものでも、自分がほしければ買えばいい、と夫は言う。しかしその場合でもお金ができてからにしろ、というのが私の家のルールだ。一時相続税を考えてわざと借金を作るべきだということを私は人からも教えられたが、我が家では相続税対策の投資ということをついぞしなかった。

 もう一つ他人は私のことを知らない、と改めて思わせられたのは、私が普段から親しい編集者を呼び出して、しきりに競艇を見に行こうと誘うと、雑誌に書かれたことだった。

 私は人との付き合いが怖いので1人で家に閉じこもっていても済む小説家になった。今でも編集者を誘って飲みに行ったりしない。皆忙しいことを知っていて、呼び出すのは罪悪だと感じている。しかしおきれいごとを言うより、そんな時間があったら、私自身がまず寝ていたい。何より私は賭け事が好きではないから、任務として行かねばならない場合以外、わざわざ自分から賭け事に行く気には全くならない。しかし私は今、日本船舶振興会の仕事をしているので、仕事として競艇場に行く必要が年に何度かはある。

 私たちがこの程度に正反対の内容の記事を読まされているケースは、決して珍しくはないのだろう。

 しかし私は賭け事が悪いなどという判断をしたことがない。賭け事もお酒も、それらはどの程度自制して楽しむかが問題で、それこそ個人の選択の範囲に責任がある。自動販売機がビールを売るからアルコール依存症になったという発想の人はいるが、料理に酒類は必要である。お酒がそのまま悪ということもない。同様に人生は、登山でもヨットの世界一周でも(と一々数えたてるより、あらゆるスポーツも経済も研究も国際政治も、と言った方が早いだろう)すべて賭けの要素がある。

 正義=ディカイオシュネーという言葉は、現在の日本では普通「少数民族が平等に扱われること」とか「裁判で冤罪がないようにすること」だと思われているが、本当の正義は「神とその人との間の折り目正しい関係」を指すという。横並びの世間の判断は問題ではないのである。つまり世間が、それはいいことだと言っても、神の眼から見て必ずしも正しいわけではない。同様に世間から袋叩きに遭っても、神がそれを望んでおられることもある。

 もちろんこの折り目正しくあるべき神との関係は常に歪んでしまう。それを私たちは必死で正し続けて一生を終わるわけである。

 私がこういう考え方に比較的素直に馴れることができたのは、私たちのカトリックの世界では、誰もが、造物主の造りたもうたものを愛することを悪いとは言っていないことを身を以て知っていたからだろうか。ミサ聖祭には必ず葡萄酒が使われる。また私たちの知り合いの神父たちは、楽しそうに葉巻やタバコを吸う。度を過ごしてそれが体に悪い程度になるか、或いは嫌いな人の迷惑になるような場所で吸うかどうかこそその人の生きかたになるのである。そして神父たちは、自分をも含めた人間の弱さについて極めて闊達に笑うことのできる人たちであった。

 一度は外国で1人の日本人のブラザーにお会いしたが、その方は昔長距離トラックの運転手さんとして働いていた、と自分の方から話された。

「あの頃はずいぶんあちこちで競艇に行きましたよ」

 きっと儲からなかったから、ブラザーになられたに違いない、と一瞬私は思いかけたが、実はそうでない場合も大いに考えられるのである。(そうでない場合を書くのは文学の世界だ)

 トマス・アクイナスの「すべて存在するものは、よきものである」という言葉を知って私が衝撃を受けたのは、私がもう若いとは言えなくなってからなのだが、それはそれまで私の心の中でもやもやした状態で残っていたものが一挙に明快になったからであった。

 今の私くらいの年になれば、すべて存在するものの持つ任務と意味がわかっている。それはどれも単純ではない。病気と戦争は、明らかによくないものだが、その中でさえ、見事な人生を見たり覚ったりした人は決して皆無ではなかったのだ。だからと言って誰も病気や戦争を奨励する人はいない。

 しかし世間はもっと近回りの人生を期待する。よきものでなければ存在を許さないようにしろ、と言い、今でも悪いことをするとひどい目に遭うような「勧善懲悪」の世界を期待したりする。確かにこの世で悪人が栄えない方がいいだろう。しかし行った善行の量と同じだけ人が栄え、犯した悪行の量と同じ程度に現世で罰が加えられるとしたら、人はいい目を見るためにだけ善行をする。それはもはや商業の世界だ。人間は幸福を買う手段として善行を行うようになる。

 神はそのおぞましさを避けるようにしてくださった。現世では完全に辻褄を合わせて報いられることがなくてもなお、善行をするという自主性と、その誇りと、その栄光を人間に許してくださったのである。

 私たちの多くが現世で他人は自分を理解していないと苦しむことに関しては、神は最大の保証と慰めを与えられた、と私は思っている。

 『マタイによる福音書』の6章は、徹底して神と人との間の秘密な関係について述べている。

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(6・3〜4)

「あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(6・6)

 ほんとうは、人間同士には他人のことなど全くわからないものなのである。親のことも子供のことも、夫のことも妻のことも、知らない部分がたくさんある。ましてや一つ屋根の下にもいない他人のことなど、どうしてわかるのだろう。それなのに、人は平気で他人のことをああだこうだと言う。新聞も週刊誌も、記事の多くは、わかるはずのない他人の話である。私たちは普段皇室の方々と個人的にお会いする機会などないことはわかり切っているのに、或る人は皇室の最近のニュースをずっと見て来たことのように喋っている。それらは皆週刊誌の受け売りなのだが、週刊誌の記者といえども、皇室に親しく出入りしているわけではないこともまた明らかなのだ。

 その手の不確かな記事を読んで楽しむ人は実に多い。その記事が「おいしい」のは、それが時には過剰なファン意識、時には明らかな悪意で味付けされているからである。公正を装わねばならない出版物でさえそうなのだ。ましてや日常の、個人のお噂話となったら、人はどんな噂でも平気で作りあげる。

 もし神がいなかったら、という設問がよく使われるが、もし神がいなかったら、人は世間すべてに対していちいち自分に関する噂を訂正して歩かねばならないだろう。或いは自分の能力をもっと認めさせたり、自分がどんな場合にどんな働きをしたかを宣伝して歩いたりしなければならないだろう。しかしそんなことは決してできることではないのだ。

 神が隠れた所に在って、隠れたものを見ておられる、ということほど、人間にとって大きな慰めはないだろう。自分に罪がなかった、ということが神に知られていればいい、というだけではない。世間は知らなかったが、自分はあの時あのような恐ろしいことをやりかけていた、ということを知っていてくださるのも神なのだ。しかし私はその恐ろしい考えを実行しないで済んだ。その喜びと感謝を捧げられるのもまた神だけなのである。

 要するに、神にだけは理解されていることが必要なのだ。あたかも世間の恋人たちがお互いの心さえ繋がっていればそれで充分、と思うようにである。

 その反面、神がいない怖さはどんなものだろうと思う時がある。世間を相手に自分の正しい実像を絶えず主張して生き続けようとしたら疲れ果てる。神なしに生きるのは、私にとってはどうしても無理が出るのである。
 



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