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≪ メコン川の月の都 ≫
世界に国と名のつくところは、190弱あるが、このうち海のない国は42カ国ある。ラオスはASEAN(東南アジア諸国連合)10カ国のうちただ1つの海に面していない国だ。
世界のさまざまな国を旅して10数年、私は1つの仮説を持つにいたった。それは海のない国は、国力の“弱い国”が多いという私の旅行経験則だ。“弱い”というと、ちと語弊もあろうが、そこに住む人々が、喧嘩が弱いとか、いくじなしとかいうことではなく、地政学的条件が悪いので軍事、文化、経済、の面で地域の覇権国になりにくいという意味だ。強力な民族に不便な地に追い込まれ、強国の版図の引き算の残余のような、不自然な国境の内側に閉じ込められた、不幸な歴史を持つ国がほとんどである。
ラオス人民民主主義共和国もその1つ。そういう国は決まってアクセスが不便だ。特別な用事でもない限り、つい訪問が後回しになってしまう。ラオスは私にとって、ASEAN10カ国の中で、しんがりから2番目に訪れた国だ。あとは赤道の島国、ブルネイ王国を残すのみだ。ラオスに出かけるために、タイのバンコクに行き、そこから首都ビエンチャン行きの最終の飛行機を乗り継いだ。2001年の4月である。この国はもともとシャム王朝に属していたことがあり、タイはメコン川を隔てた隣国だ。飛行時間は1時間半という近さだ。「ビエンチャンに間もなく到着」のアナウンスがある。眼下に街の灯が見える。
「小さな首都と聞いてたけど、結構な夜景じゃない」
「いや、まだタイ領です。あれはメコン川対岸のタイの国境の町、ノーンカイの灯です」。同行の笹川平和財団の関晃典さんが教えてくれる。関さんは、日本の商社のバンコク支店長を長く勤めラオス通でもある。5分もたたずにビエンチャンの玄関口、ワッタイ国際空港に着いた。市内から西へ6キロとのことだが、空から見た空港周辺は真っ暗で、「翼よ、あれがラオスの灯だ」というわけにはいかなかった。
「ビエンチャンは人口60万の都市ですけど、夜景を彩る灯があるのは、半径2キロの市の中心部だけ。田舎なんですよ。タイに比べると経済力は圧倒的に低い。ラオスの最大の輸出品は、メコン川の水力で発電した電力だ。6割はタイに売っている。“インドシナのバッテリー”とタイのマスコミは言ってる。さっき見たノーンカイの街の灯は、ラオス製の電力ですよ」。関さんの解説だ。
街の灯がないかわりに、満月がメコン川の川面を映していた。ビエンチャンの「チャン」とはラオ語で「月」という意味とのこと。月の都ビエンチャンは暗いからこそ月が大きく、ことのほかくっきりと見える。
ラオスの国土の広さは、日本の本州とほぼ同じ。人口は480万。だが周囲を、タイ、ミャンマー、中国(雲南省)、ベトナム、カンボジアの5カ国に囲まれ海への出口はない。そのかわり北から南まで、タイの国境沿いにメコン川が流れている。
北は800メートルから2000メートルの山と高原、南は平地で水田と熱帯雨林だ。首都ビエンチャンは、南北に約1000キロに及ぶタイとの国境線のほぼ中間に位置し、メコン川の対岸はタイ領だ。
≪ 「カフェ・ラオで朝食を」 ≫
早朝、ビエンチャンの市内を散歩する。ビエンチャンの街の朝食を何度か試してみた。この街の朝食は3種類あることに気付いた。それがいずれもウマイ。この国のディナーに相当する食事は中華風、タイ風、ベトナム風であり、どれがラオス料理なのか私には識別がつかないしさほどウマイとも思わなかった。でも街の食堂の朝食は格別だった。
ビエンチャン名物にフランスパン、目玉焼き、カフェ・ラオの3点セットがある。ラオス風モーニングだ。このフランスパンがいける。外はカリカリ、中はふっくらの棒状のパンだ。日本のパンは世界で1番高価な輸入小麦(カナダ産のマニトバ)を使っており、ウマイが高いことでは世界的に定評がある。
でもこちらは安くてウマイ。目玉焼きをパンに塗りつけて食べる。フランス植民地時代の置きみやげだ。ビエンチャンにはフランスパン製造工場が数力所あり、早朝、昔のトウフ屋のようなラッパを吹きながら自転車で路地を回るパンの行商もいると聞いた。
朝食のカフェ・ラオも乙なものだ。綿のフィルターで濾したコーヒーをグラスに入れ、コンデンスミルクをたっぷり注ぎ、さらに大サジで砂糖も入れる。ドロドロのカフェ・ラオに氷を入れるとアイスコーヒーになる。この種のコーヒーを植民地時代のご主人様、フランス人が好んだとは思えないが、コーヒー栽培はまぎれもなくフランスが移入したものだ。私はカフェ・ラオと全く同じ、コンデンスミルク入りアイスコーヒーを米国、ワシントンのベトナム食堂で飲んだことがある。フランス人が持ち込んだコーヒー文化を、高温多湿のインドシナの食文化に合うように改作したのだろう。
3種類の朝食のあとの2つは、麺とカユだ。これは、隣国のベトナムでもカンボジアでもありふれた庶民の朝食だ。麺はベトナムでは、「ホー」というが、ラオスでは「フー」と呼んでいるのを知った。米で作った白い麺で、スープは鶏のガラで作る。さっと湯がいた牛肉と香菜を千切って入れる。カユは鶏かブタのガラのスープに、生卵を入れ、ライムをしぼって試す。
タラート・サオ(午前5時から開いているビエンチャンの朝市)は、出勤前の市民でごった返していた。
関さんとラオス国立大学に出かける。この国には1996年まで大学と名のつくものはなかったが、師範学校、建設学校、医療学校を合わせて総合大学が造られた。関さんの財団はこの大学に市場経済とは何かを学ぶ基本ソフトと教科書を援助している。40代の若い学部長と英語で話をした。「教育はすべてラオ語でやっている。憲法でも“教育はすべてラオ語で”と規定されている」という。
途上国で高等教育をすべて自国語でやれるのは、中国をのぞけば、ラオスぐらいのものだろう。とくに社会科学や人文学を西洋の言葉抜きでやるのは大変な仕事だ。専門用語の原義を読み取り自国語に直す作業を、20年かけて完了したというのだ。日本の幕末と明治維新の「創始者の苦心」を地で行くような国家的大事業であったに違いない。
この国は1975年、パテトラオ(民族解放戦線)によって600年続いた王制を廃止した。初代のカイソーン閣僚評議会議長は、「日本の“マイジ・レストレーション”の本を100冊集めて勉強せよ」と命じたと学部長。「マイジ」とは明治のフランス語読みだ。この国の知識人は今でも英語よりフランス語のほうが得意だ。この国が国際化路線を採用した90年代の初めには、英語の読み書き会話ができる人は、50人しかいなかったという。今ではビエンチャンの街に英語学校の看板をかかげた建物がいくつも目につくほどの英語熱だ。
≪ 「LAOS」国名の由来 ≫
これも私の旅の経験則だが、強国の版図に翻弄された歴史を持つ民族は外国語の習得能力に優れている。ラオス史の解説書を読むとそれが納得できる。この小国は何と68の民族から成り立っているが、主流は「タイ系ラーオ族」と呼ばれる人々だ。
彼らは約5000年前、中国の四川や雲南に住んでいたというが、唐王朝に追われてメコン川を下り、今日のラオスに王国を築いたという。紀元10世紀頃のことだ。その後、カンボジア、ビルマ、タイに攻められた。
このあたりのラオス中世史の紆余曲折は省略するとして、シャム王朝(バンコクの王朝)の自治領であった1893年、フランス軍の威嚇に屈したタイは、メコン川の東をフランス領に編入することを認めた。
こうして、ラオスはベトナム、カンボジアとともに仏領インドシナとなった。そしてラオスの3王国は、ラーオ族のLAOを複数形にした「LAOS」と改名させられた。フランスは、ベトナム人を中・下級の行政官に任命。チーク材、ゴム、コーヒーのプランテーションや錫鉱山の開発など、植民地経営を行った。
ビエンチャン名物フランスパンはその時代の所産だ。昔のラオス人が、フランス語やベトナム語、そしてタイ語に通じているのは、こうした歴史的ないきさつによる。島国日本とは全く生い立ちの異なる国なのだ。
ところでフランスは60年間の植民地支配時代を通じて、最大で600人のフランス人しか移住しなかった。
「その理由はですね。フランスは中国領雲南までメコン川沿いに鉄道を敷き、河口のベトナムから中国製品を輸出しようと試みた。ところがカンボジアとの国境に大きな滝があり、水運も鉄道もダメだとわかって、植民地としての将来性はなしと認定した」。関さんはそういう。
関さんによれば、今でもメコン川流域のラオスは、タイの文化・経済圏だという。ラジオもTVも、タイの放送が生で入ってくる。関さんのタイ語が、ビエンチャンでは通訳抜きで立派に通じるのである。
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