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私たちが子供の頃、母たちの、世代は、大学出ではなかったが、きれいな敬語を使っていた。言葉はすべて□移しで親から教えられるものだから、私たちも先生に対しては「そうなさいますか?」「先生もいらっしゃいますか?」という形の、めりはりのある敬語をちゃんと使えた。
もっとも関東と関西では敬語の形が少し違った。関東では「姑がこう申しておりました」という形の譲語が使われ、関西では「お姑はんも、こう言うてはります」となる。どちらも土地柄を映したきれいな言葉であった。
しかし今では、どこに行っても間建いだらけの日本語が使われている。「ご使用できます」「見れます」「うちの娘に買ってあげました」は間違った使い方だ。「ご使用になれます」「見られます」「うちの娘に買ってやりました」が正しい表現である。
日本の教育界は、日本語の教育さえまともにできなかった。親たちも、先生が教えられない敬語を、自宅で補助的に教えることができなかった。どちらにももっとヒガンデもらいたい。理由は親や先生たちが、美しい敬語をふんだんに使った小説を読まず、正確でないお噂話ばかりを載せた週刊誌しか読書というものをしなかったせいであろう。
日本民間放送連盟も例外ではない。民放連は7月19日の理事会で、「午後9時以降の番組暴力や性表現など、青少年への配慮が必要なシーンが含まれる場合には、番組冒頭でテロップなどを流し、注意を喚起する『事前表示』をすることを決めた」。そこには「『お手様の視聴に配慮が必要とされる場面があります』などのテロップを流す」のだそうだ。
「お子様」とは何事だろう。お子様というのは「お客さまのお名前さまを、こちらにお書きください」と恥ずかしげもなく言うように教えたデパート独特の用語だ。こういう場合には「子供(未成年者)の視聴には配慮が必要とされる場面があります」だろう。民放連も新聞も、こうした一種の「おべっか用語」を全く変だと思わなくなったのだ。
子供と親とは対等ではない。親は保護者として育て教え、何より愛を楽しむのである。
子供の考えをよく聞くのは当然だが、それは親と子が平等だからではない。教育は、平等ではできない。平等というのは最低の人間関係だ。教育には必ず先人があり、その人に教えを乞う。すべての名人芸・職人芸も平等でないところで完成したのである。
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