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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 霊安室の前で  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2001/08  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   前回この連載の中で書いたフランスのルルドを訪問した後で、私たちのグループ(世界の貧困を知るための、中央官庁、マスコミ、日本財団三者の合同調査団)はウガンダで農業改革会議に出席し、その後南アフリカ共和国を廻った。今回の勉強のテーマの一つが、アフリカで猛威を振るっているエイズを知ることにあったのだが、私たちの勉強は既にウガンダでも始まっていた。

 農業改革の会議に出る間に、私たちはウガンダのエイズ対策についても、現地で状況を見られるように手配してもらっていたのである。

 私たちが訪ねたのは、首都カンパラから1時間半ほど離れた田舎で、そこでは27歳の砕石工のエイズ患者が、若い妻と4カ月の子供といっしょに暮している窓もない4畳ほどの面積の土の小屋を訪問した。彼がどうやら肉体労働をして家族を養えたのはこの春までだったというから、その後、働き手を失った家族は親か親戚の人に面倒を見てもらっているのかもしれない。

 私たちのグループの中には、末期のエイズ患者を初めて見た人も多かったが、病人の特徴は、大人でも子供でもとにかくだるそうだということだった。立ち上がることはもちろん、半身を起すことも、話すことも、子供なら泣くことも、すべてやっとというふうになる。医学的には、免疫力が落ちる、口内炎から始まって、肺も腸もすべて粘膜がだめになり、ひどい下痢が続いて骨と皮のようになる。

 砕石工の父親は、電気もない小屋の床に蒲団を敷いて寝ていた。私たちが来ても起き上がる気力はなさそうだった。グループの中には厚生労働省のドクターもいたので、私は専門家に充分に時間を取ってもらうためにすぐに狭い小屋を出て、案内をしてくれたプロテスタントの牧師と木陰で立ち話をした。この人は地区のエイズ患者たちのために働いていたのである。

「あの奥さんと子供さんは検査をしていますか。結果はどうでした?」

 私は低い声で牧師に尋ねた。

「二人共、まだ調べていないんです」

 彼は答えた。私はその答えを私なりに納得した。調べたところで、治るだけの薬を買えるわけではないのだ。

「子供については一般に1年4カ月くらいになるまでは、調べないように勧めています」

「どうしてですか?」

「1つには結果が正確にでないんです」

 その時、私はまだその理由を理解していなかった。後で知ったのだが、乳児の感染は多くの場合、HIVプラスの母親からお乳を飲むことで起るのである。1年4カ月はまだ充分に母親のおっぱいをしゃぶっている時期である。しかし日本人はそのような事実にも理解が浅い。もし母親がプラスで、子供が幸いにもマイナスで生れて来たなら、授乳を止めさせることで、感染を防げるのではないか、と思うのだ。しかしそれにも大きな問題があった。自分の乳房から乳を飲ますことは、アフリカの母たちにとっては当然の誇らしい行為である。乳は溢れるほど出るのだ。

 先進国の救援組織が、HIVマイナスで生れて来た子供たちに粉ミルクを支給するのは不可能ではないにしても、それを溶かす清潔な水を確保することが次の問題であった。こうした土地では、乳幼児の下痢による死亡率はかなり高い。衛生の知識のない母親に、自然の水には細菌がいるから必ず煮沸した水で、ミルクを溶かすようにと教えても、いちいち薬罐や鍋に汲んだ水を、薪を燃す竈の火にかけて煮沸するとは思えなかった。すると、子供たちはエイズで死ぬ前に、もっと高率で下痢で死ぬのである。

「もう1つの問題は、エイズだとわかると、多くの親たちがもう子供には乳や食物を与えなくなるんです」

 私は黙った。心の奥深くで私はすぐ理解した。水が不足している乾燥地帯では、最後の1杯の水は、弱い者ではなく力のある者が飲む。それで彼らは沈黙のうちに淘汰を実行するのである。そして食物が不足していたり、貧しかったりする土地では、食物は生き延びられそうな者が食べる。これも自然な淘汰の行為なのであった。


 この春、私は一人の客を勤め先の日本財団に迎えた。

 正直なところ、極めて服装の悪い客であった。セーターはよれよれ。最近のホームレスよりひどいみなりだったかもしれない。しかし私にとってはそれは幸せな感覚だった。なぜならこの方は、フランシスコ会の根本昭雄という神父で、修道会に属している神父たちは何より清貧を旨としていたのである。

 私はこの方と初対面だと思っていたが、それは大変に失礼なことだった。昔私が亡くなった堀田雄康神父について聖書を習っていた頃、瀬田の修道院で、私は根本神父に挨拶をしたことがあったらしい。

 神父はアフリカ赴任を間近に控えている時で、私は初対面の神父に「神父さまはアフリカで殉教してください」と言ったというのである。神父の用事は、私が働いている小さなNGO(海外邦人宣教者活動援助後援会)に対して、神父が関わっている南アのエイズ患者のためにお金を出してほしい、ということだった。南アの人口は約4000万人。それに対してエイズ患者の数は410万人だということだった。

「10人に1人ですね」

 と私は言った。それから神父が持ってこられた申請書を開くと、そこには複数の事業に対する要請がなされていたので私は尋ねた。

「神父さま、私たちは400万人を救うことはできません。このうちのどれから手をつけたらいいとお望みですか」

 基本は南アの人たちの性に関する教育だ、と神父は答えた。しかし前に何度か南アに行った時、私はいくつかの「雑音」とでも呼ぶべきものを耳にしていたのだ。

「この土地の人たちというのは、どうなっているんでしょうかね。先月『妻です』って連れて来た女性と、今月『妻です』って紹介された人とは明らかに違うんですよ」

 そういう例は決して特別なものではない。アフリカの多くの国では、今でも一夫多妻はごく普通のことである。診療所や病院の初診カルテには「妻の数」という項目を設けている所も多いし、南アの諸部族には「生めよ、殖やせよ」という気風があるから、避妊などもっての外、男性用の避妊具など嫌ってつけないし、つけると一度で捨てないから、病気が複数の妻の間ですぐに広まる、と私は聞かされていた。

 性教育がエイズ撲滅の基本であることはわかり切っている。しかし部族の昔ながらの感覚を元にした家族関係を、一朝一夕に外来の性教育で変えられると私は思わない。

 私がはっきりしない表情をしたからだろう。神父は私にわかり易いお金の用途を明示した。それは差し当たり霊安室を作ってほしい、ということであった。

「子供も大人も、毎日のように死ぬんです。亡くなっても、移す所がないので、生きている人の隣のベッドに寝かせておくんです。でもそれはいろいろとよくないことですからね。せめて霊安室があったら安心して遺体をおいておけると思うんです」

 初め神父は、両親がエイズで死んでもせめて孤児として残された子供たちだけは、HIVマイナスでいてくれるだろう、と思っていた。しかし結果的に言うと、やはりほとんどの子がHIVプラスとして残されていた。母親を失った子供の中には(多くの場合、父親は初めから生活の中に存在しない)、それ以来全く笑わなくなった女の子もいる。今までの神父たちの体験で言うと、充分な薬を与えられない南アの状況では、こうした孤児たちは恐らく数年のうちに死ぬだろう、と思われて来た。神父の留守の間にも、残して来た孤児たちはどんどん死んで行く。

「あの子もこの子も死んだという知らせがあって、どうしてそんなにたくさん死んでしまうんだろう、と思うんです。ですから私はいつも子供たちの写真を撮っています。お葬式の時、写真がないのはかわいそうですからね」

 霊安室の予算は217万円ほどだった。私たちのNGOは間もなく運営委員会を開き、すぐにこの予算を承認した。神父には早速送金し、残りの事業については、私が6月に現地を訪問して状況を見てから、ということになっていた。

 フランシスコ会の経営による根本神父たちの仕事は、大きく分けて青年たちの教育事業と、エイズ患者たちの世話であった。エイズに関しては、末期患者たちのためのホスピス、HIVプラスの孤児たちを育てているホーム、3歳〜4歳まで生き延びた子供たちのコンテナーを利用した幼稚園、この3つが郊外の土地に集められて「聖フランシスコ・ケヤー・センター」と呼ばれていた。

 その日、私は霊安室を寄付したNGOの代表として、その開所式に招かれていたのである。式次第に「新しい施設のオフィシャル・オープニング」と書いてあるので、私は根本神父に尋ねた。

「オフィシャル・オープニングというのはどういう意味ですか」

「実は一昨日、一晩のうちに3人亡くなったんです。それで霊安室はもう既に使わせてもらっています」

 思いの外、この建物の完成は早かったのである。ということは、霊安室が必要だという状況が、それほど差し迫っていたということであった。

 私たちは霊安室の前の芝生に集まって祈りを捧げ、かの有名な「アメイジング・グレイス(何という恩寵)を歌った。

 「何という恩寵!
  私のような惨めな者が救われた。
  何とすばらしいことか。
  かつて私は自分を失っていた。
  しかし今、私は自分を見いだしている。
  かつて私はめしいであった。
  しかし今、私は見ている。

  私が恐れを抱いたのも、
  その恐れが除かれたのも、
  すべては恩寵であった。
  私が信じた最初の時、
  恩寵が見えたのは何とすばらしかったことか。
  数々の危険と、苦しみと、わなを逃れて、
  私はここに辿り着いた。
  恩寵がこんなにも遠くまで安全に私を伴い、
  恩寵が私を、終の住処まで導く。

  主は私にとってよきことを約束された。
  主の言葉は私の望みを保証した。
  彼は私の守り手、
  彼の恵みは私の生命が続く限り」

 この歌は、ブラックの人たちが小節をきかせて歌ってこそ、ふくよかになる。

 霊安室のドアの脇には「海外邦人宣教者活動援助後援会」が贈り主であることを記された銘板がはめ込まれていた。式では、私がその前に掛けられた小さなカーテンを開け、入り口の鍵を受け取ってドアを開ける。中の冷蔵室のドアの前にも小さな祭壇があって、私はそのローソクにも灯を灯した。

 ここへ来るまで「どうせ霊安室と言っても、ブロックでできた簡単な室でしょう」などと私は不謹慎なことを言っていたのだが、冷蔵室の中は、左右に4個ずつ、合計8個のお棺がおさめられるようになった棚のついた堂々たる構造であった。

 式が終わってから、私たちはそこから50歩と離れていないホスピスを見学した。とは言っても患者たちがいない談話室と空いている病室を見ただけだった。

 今日現在、患者は15歳から45歳まで28人が入っていた。先月は32人が亡くなって、30人が入院して来たというから、すさまじい回転率である。日本の癌専門のホスピスの入院患者たちが総じて高齢であるのとは違って、患者たちの年齢は、まさにこの国の労働人口に当たっていた。根本神父と日本で会った数力月前、神父は患者の数を410万と言ったが、私たちがアフリカに発つ直前の日本の新聞では、南アのエイズ患者の数は480万に増えていた。もし状況がこのまま推移するとすれば、この国では数年後には働く人たちがごっそりいなくなる計算であった。

 ここにやって来た時、患者たちは、怒りと罪の意識に捕らわれ、落ち込む。しかししばらくすると、運命を受容して、99パーセントが安らかに息を引き取る。ここではもう抗ヴィールス剤は与えない。痩せて生命が燃え尽きるのとの闘いである。

 患者たちのうち、まだ日差しの中まで歩ける人たちは、庭に置かれたパラソルの下のテーブルに集まっていた。白人もブラックもいる。あれが15歳の娘かと思われる患者もいた。彼らは霊安室が急遽建てられているのを知らなかったわけではあるまい。さっき私たちが歌った「アメイジング・グレイス」の歌声を耳にしなかったわけでもないだろう。この日、ここでは生と死はまさになだらかな一続きであった。

 私たちはそれから、信者の婦人たちによって用意された昼食のパーティーに向かった。手作りのイタリアのペンネ(パスタの一種)やローストビーフなどのビュフェである。

 そこで私は、エプロンをかけてもっぱら給仕のために働いている1人の上品な白人の婦人に気がついた。

 私の隣の席に坐ったお喋りの修道女が、眼に入る限りの人の話を喋ってくれたおかげであった。

「あの人は、ここに連れて来られたHIVプラスの子供を2人養子にしたのよ。いいえ、弁護士でも何でもないわ。普通の奥さんだけど、とてもかわいがっているの」

 食事の終わりにその婦人に礼を言いに行った時、私は彼女に尋ねた。

「2人の子供さんは、お元気ですか?」

 彼女は私が知っているということで、安心したような眼差しを向けた。

「ええ、とても元気です」

「幾つにおなりですか?」

「大きい方はもう9歳になりました。元気でいてくれたらと思っています」

 エイズも、幸福だと発症しなくなる、と私は思いそうになる。生みの母を次第に忘れて、この人の肩と胸に頬を寄せて眠れば、孤児たちは安心して長生きするようになるのだろうか。小学校までほとんど保たない、と言われる子供たちが、9歳まで生きている。同時にこの人も「何という恩寵!」を手にしたのだろうと思いながら、私は別れを告げた。
 



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