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この六月、ウガンダに行った時、非常に印象に残る光景を見た。
ウガンダが英連邦から独立したのは、1962年のことである。それ以後の歴史的変遷をふり返ることは今ここで一応控えるとして、とにかく、39年が経ったことはまちがいない。
私が働いている日本財団は、アメリカのカーター・センターと共にアフリカでSG2000(笹川グローバル2000)という農業改革を行っているが、一年置きにその改革に加わっているアフリカの国のどこかで成果を発表し合う会議を開いているが、今年はウガンダのカンパラで開かれたのである。
会議の始まる前日、出席者は4つのグループに分かれて、近郊の農村を見ることになった。グループーは力ーター元大統領が行かれるコースに決っているから避けた方がいい、と私は判断した。SPと警察が物々しく入りこみ、歓迎のダンスに時間を取られて、ごく普通の調査はできない、と思ったのである。
私たちが選んだのは、菊を栽培している農園と、ワニの養殖場である。ホテルから一時間ちょっと走る距離にある。
菊というから菊の切花を作って売るところかと思ったら、主な商品は菊の芽を出荷するのである。私も自分で作ってみて初めて知ったのだが、菊というものは決して植えっぱなしで毎年咲くものではない。必ず古い株から採った若芽を地面に挿してそこから新株を作らねばいい花は咲かない。
農園で出迎えてくれたマネージャーのような人は、少しなまりのある英語を話す白人だった。オランダ人だという。彼は広大な温室を使って、さまざまな菊の苗床を作り、それを切り取って輸出する仕事をしていた。今私は温室と書いたが、むしろ15パーセントの日照をカットするための温室である。
その農場では週間に500万本の芽を摘み取って売る。芽は約660本で1キロの目方になり、それを1ドル75セント、約200円で売る。
温室の中では、ウガンダ人の労働者たちが特別なハサミを使って新芽の切り取りをやっていた。私のような畑仕事に馴れた者なら、1分間に10本、いや15本は行くだろう、などと考えたが、10本としても66分で660本を切り取ることができる。660本で約200円の売り値のうち、いくらが労働者のものになるのか。
大体この国でも、労働者は一家が月30ドル、一日約100円ちょっとあれば何とか生きて行く、と考えられているようだ。
私たちが次に見学したのは、クロコダイルの養殖場だった。私はアリゲーターとクロコダイルの違いも知らなかったが、アリゲーターはアメリカにいて、海水に育つ大型ワニ。クロコダイルはアフリカ産で淡水に育つ小型のものだという。
ここには鉄砲を持った女ガードマンがいる。ワニ皮は一平方センチメートルが2ドル、約250円もするので、泥捧が来るからである。
こうした地元産業創業の経緯が語られたが、そこにも白人の姿がちらほらする。肝心な時に悪いことをして逃げた白人、今、事業に加っているイタリア人、という具合である。見せられたこうした会社が2社で、その仕事がやや新しい分野だから、どうしても先進国の技術や販売ルートがいるのだろうが、白人の姿のちらつかない地元企業が現れない限り、「歴史は繰り返すのか」という危惧を持つのは私だけではあるまい。
クロコダイル養殖は、初めヴィクトリア湖に流れ込む支流の流域で卵を集めることから始った。この企業は1991年以来だという。今ここでは5000匹を飼っているが、ワニは10歳から15歳で卵を生み始める。けっこう時間がかかるものなのだ。卵は、孵化に三ヵ月かかる。革は月1500枚前後を塩づけにして冷蔵した状態で輸出する。なめしは恐らくイタリアなどで行うのであろう。
この頃はワニの肉も1キロ6ドル(700円ちょっと)で売れる。これは牛肉の4倍も高い。もっともワニの餌は鶏肉で、若いワニには毎日、既に大きくなっているワニにも週に三度はやるのだそうだから、餌代もけっこうかかるのである。
幾つかのアフリカの国の中の、ウガンダもその一つだが、こうした輸出産業をはばんでいる決定的な要素がある。それは国が海に出口を持たないことである。
ウガンダは周囲を5国に囲まれて、一番近い港は隣国ケニヤのモンパサまで約500キロである。切ったばかりの菊の若芽や、塩づけの冷蔵ワニ革を輸出するのは共に新鮮さが問題になるのだが、この陸路の500キロは、決定的なデメリットになる。隣国ヒいうものは、常に港を使わせる侍にイジワルをするものだからだ。
菊の栽培をしているオランダ人のマネージャーによると、こうした業者が集ってヨーロッパまで専用貨物機を飛ばしているという。しかしそれても最低十時間はかかる距離だ。ウガンダのその地方は高地で、菊の栽培に適しているとは言うが、それでもこの距離はかなりの不利になるだろう。それでも一応採算が取れ出したという背最には、アフリカの安い労働力があるからである。
もし私がこの菊農園で働くなら、すぐ彼らのノウハウを盗む。気温はどれくらいがいいか、苗には一平方メートルあたりどれだけ灌水すればいいか、消毒は何日に1回何をやればいいか、知識を盗むのは簡単だ。
大東亜戦争に敗けた時、日本もレーダーその他でアメリカに完全におくれを取っていた国だった。その事実に愕然とした一群の日本人たちが、あたかもその雪辱戦のように戦後の電子機器を作った。
ソニーがその先鞭をつければ、他の会社もそれと競争するように研究を重ねた。そうした一国を挙げての産業の波及がアフリカにおいて行われにくいのは、アフリカの多くの国がまだ部族、宗教、人種の三つの面での分割が残されたままだから、という。
植民地時代、或いは植民地主義から撤退する時、ヨーロッパの指導者たちは、その面の教育を行わないままに去って行った、という非難もあるが、それが教育だけで解決したものかどうか、私は単純に信じることもできない。それは又、彼らの血の中に根づいた独特の文化的感覚を、あまりにも軽く見ているような気がするのだ。
ウガンダのエイズ患者の比率は8パーセントだった。以前は30パーセントもあったのを簡単に8パーセントに減らせたのだから、エイズはそれほど重大な問題ではない、と大統領は言う。しかし100人中8人のエイズは相当深刻な社会現象だ。日本からは遠いアフリカに、今どこよりも複雑な難問が山積している。
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