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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 掘っ立て小屋の海老錠  
コラム名: 私日記 第20回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/08  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  2001年5月31日

 朝10時、家を出て成田へ。13時発のJALでミラノヘ向かう。飛行機の中で何と4本の映画を見る。『アンタイトラスト』はコンピュータの天才プログラマーが、ITで世界制覇を狙う悪い人と闘う話。『007』の頃はワルの道具は原爆だったが、今はコンピュータになった。『ザ・コンテンダー』は史上初めて選ばれたアメリカの女性副大統領が、政界の非難中傷と闘う話。『ショコラ』は淋しい村に突然やって来てチョコレート屋を始める母と息子の話。よくできた短編小説のようにしっとりとしている。後の1本は題を書き留めないうちにミラノに着いた。

 4本の映画を見るとどうなるか。眼が乾いて老人性ドライアイになったのかと思った。おかげで夜の八時から朝の八時までぐっすり。


6月1日

 朝、モンティローリ富代さんと会い、いろいろな話。歩き専用の靴を2足買う。昼はホテルの近くのレストランで、スープで煮たシャブシャブ風の牛肉の上に新ソラマメと若いグリーンピースを載せた初夏の味を楽しんだ。

 午後の飛行機でパリヘ。予定通り着いたので、ジェトロの佐伯誠治氏と東京から到着するアフリカ調査団のグループを迎えた。敬称は略して団員は次の通り。

 岩田継人(共同通信社)、鯨井達徳(TAC)、小山孝(読売新聞社)、斎藤浩(産経新聞社)、鈴木浩(暮らしの映像社)、岩見洋一(国土交通省)、太田裕之(厚生労働省)、木村敬子(文部科学省)、島田嘉幸(農林水産省)、高柳大輔(経済産業省)、以下日本財団から犬飼政雄、星野妙子、青柳光昌、福田英夫、今井千尋、と私の6人。

 ジェトロのご好意で荷物を20個ほどオフィスに預って頂き、11時過ぎモンパルナス駅から、ルルド行きの夜行寝台に乗る。4人部屋の下段に寝ていたのだが、夜半過ぎに私の上のベッドに男が1人乗り込んで来たというのに全く気がつかないほどよく眠っていた。早朝、車窓にガヴ川の清流が見え、まもなくルルド着。


6月2日

 午前中は休息。私たちの宿「オテル・デスパーニュ」はテレビもない簡素な巡礼宿だが、川向こうに並んでいるホテルの名前がすごい。「マリアの百合」「アッシジの聖フランシスコ」という具合。さすがに巡礼地だ。

 手持ちカバンの小さな海老錠が開かなくなったが、ホテルのご主人が帰って来ると、暗証番号を聞いて、簡単に開けてくれた。ピッキング泥棒もこういうところに雇われて働けば、こんなに感謝されるのに。

 1858年、まだ人家も稀だったこのピレネー山麓の寒村にベルナデッタ・スピルーという羊飼いの少女がいた。その少女に聖母マリアが18回にわたって現れ、罪の償いその他について語られた。初め少女の周辺はそれを幻覚だとして誰も信じなかった。しかし学校にも行っていなかった少女が、そのころヴァチカンによって決められた神学上の定義で聖母の出現を説明したので、初めて聖母の出現は信じられるようになった。

 私が若い公務員やマスコミ関係者や財団職員のグループをここへ連れて来たのは、決してカトリックの信仰をおしつけるためではない。カトリックは信仰を人に勧めることを決してしない。ただここには、毎日数千人から数万人の巡礼者が訪れる。聖母の命によってマッサビエルと呼ばれる洞窟の地をベルナデッタが掘ると、そこに泉が湧き出した。その水を飲んだり沐浴したりした人たちから、たくさんの病人が快癒したということになっている。

 私はそれも信じてくださいとは言わない。ただここは、高齢者、病人が集う所なのだ。町中を、車椅子の人、寝台車に乗った人が、ボランティアに付き添われて、ごく自然に風と太陽の中を移動している。それが少しも不思議と思われない。人生は、生と死、健康と病気が、込みで存在する、ということは誰もが知っていることなのだが、それを日常性のうちにここでは実証している。しかし日本だったら、寝台車の病人をここまで運ぶ人はないだろう。もし途中で死んだら、誰が責任を取るのだ、とそんなことばかり心配するからだ。行きたいと思っていたところでもし死ねれば、それは本望で、他人を訴えるどころではないのだが。

 夕方からは聖体行列、夜九時からは蟻燭行列が行われるが、それらの主役は、病んだ人々である。

 年間ルルドを訪れる人は500万人。明日は聖霊降臨の祝日で、フランスは3連休なので、蟻燭行列の人出は2万か3万か、信じられない数である。明日の命も覚束ない病人も参加する。偉大な日常性と、死を間近に控えても決して孤独ではないことの証明がここにはある。それほどの数の人間が集まれば普通は喧喋、騒擾などがついてまわるものだが、それらの人たちが一斉に静寂と沈黙のうちに、この限りある現世を想いながら祈り、歌う。歌は「ラウダテ・マリア(讃えよ、マリア)」の喜びの歌である。リフレインのところは、それこそどの国の人でも歌える。


6月3日

 朝、6時。暗いうちからマッサビエルの洞窟でのポーランド人のミサに出る。ミサの途中で次第に夜が明け、洞窟の上の崖で小鳥が囀り出した。生の気配濃厚。

 ルルドには今日も病人列車が着いた。8時過ぎにオランダから、昼過ぎにイタリアからである。それを受け入れる施設がある。病室はあるが、医師や看護婦は、巡礼団がそれぞれ同行している。ほかにそういう宿泊施設を維持する人手が要るわけだが、それらはすべてボランティアである。

 私は動けない病人のために作られた広いテラスに惹きつけられた。これは王の席。ルルドで起こることをすべて見られる特等席である。そこが寝台車で移動することさえ不可能な重い病人のために確保されている。しかし感動すべきことは、それほど重い病人でも、希望するならばここまで旅行ができる、というヨーロッパ社会の発想、承認、参加、支援である。

 夜、私の部屋でヌードル・パーティー。つまり持参したカップヌードルを食べて皆で喋る会をした。


6月4日

 10時過ぎにルルド空港へ。

 午後1時の便で、パリのシャルル・ドゴール空港へ。ジェトロのオフィスで預けた荷物を受け取ってから、オルリー空港へ向かう。ロンドンのガトウィック空港に着いて、長いチューブみたいな廊下伝いにメリディエン・ホテルに入った。


6月5日

 10時過ぎの英国航空で、ウガンダのエンテベ行きの飛行機のチェックインをするのに、一騒ぎだった。案内はめちゃくちゃ、足し算はへたくそ、おまけに不親切という窓口だったそうで、財団の若者たちはすっかり疲れ果てた。

 20年前に自動車で縦断したサハラを上空から見られるかと期待していたが、カイロの上を通るというので、諦めて原稿を書く。到着まで10時間あまりで14枚書いた。

 ウガンダヘ行く目的は、「笹川グローバル2000」の年次総会が開かれるからである。日本財団は、関連財団である「笹川アフリカ協会」を実施団体として、「笹川グローバル2000」という農業プログラムのために、1985年以来、9287万5千ドルを、協力団体としての力ーターセンターに支出して来た。カーター元大統領がカーターセンターの会長である。相手国は目下のところ11カ国。世銀とは全く違う素朴で基本的な農業指導を行って、かなりの国で有効な実績を上げて来た。私流に言うと、種を蒔く時には、棒で穴を掘って、種を入れたら、土をかけるんですよ、というところから教えたのである。

 空港ではウガンダ政府の計らいで、VIPルームに通してもらったのは光栄なのだが、果たしてさんざん待った挙句、私の荷物だけ1個出て来ていないことがわかった。その請求手続きをするのに1時間以上かかった。荷物の出た人たちから先にホテルに行って休んでほしいと思ったのに、空港からホテルまでの夜道には警察の護衛が付くので、そういうこともできない。しかし空港で預けた荷物は目的地で出るのが当然、と思う若い人たちがいると困るので、これはまずいい教育だと、内心では喜んだ。もっともこれはウガンダが悪いのではなく、英国航空の不手際。


6月6日

 朝8時、4つのグループに分かれて、首都カンバラから郊外の農業視察にでかける時、私が個人で働いて来た海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)が、今日から30年目の活動に入ることを思い出した。こんなに長く続くとは思いませんでした、と神さまにお礼とも文句? ともつかぬことを呟いた。しかし人は必ず人間以外の力によって働かせられる。いや使って頂くことになる。そのからくりは何だろう、と新鮮に思う。

 今日の視察に関して私は、わざと一番人気のなさそうなコースを申し込んでおいた。カーター元大統領も来ておられるので、そのご一行といっしょになると、軍と警察とSPだらけ、行く先々で歓迎のダンスを見せられ、ご視察の典型になって実情を見られないことを知っていたからである。そちらは笹川陽平理事長に任せて、私たちが選んだコースは果たして大当たりであった。

 主に菊の苗をヨーロッパに輸出している農園、ハンドバッグ用の革をとるためのクロコダイルの養殖場などである。しかしどちらも全くこの土地の人だけの企業ではない。どこか肝心な技術上、経営上のポストに白人の姿がちらほらする。歴史は繰り返すのか。

 この国の問題は、周囲を5カ国に囲まれて海がないことだ。海がない国の不幸は決定的である。一番近い港はケニヤのモンバサだが、そこまで約500キロ陸路を運ばねばならない。その上、隣国というものは必ずさまざまないじわるをするものだ。それでこの国の安い労働力を利用した菊農園では、直接オランダまで運ぶ自家用貨物機を飛ばしている。

 夕食にホテルの食堂に行くと、待てど暮らせど、料理が運ばれて来ない。ヴィクトリア・ルームという所で食事をしているカーター元大統領ご一行さまに運ばれてしまう。結局、ラヴィオリ半皿、ステーキの食事に2時間かかってへとへとになる。早く寝たいのに。


6月7日

 ナイル国際会議場で、2001年度の「笹川グローバル2000」の年次総会。大きな会場である。ベニンのソグロ元大統領は民族衣装の正装である。同行の新聞記者たちに老婆心で「せっかく座席の前に名札も出ているんですから、片端から顔写真を撮っておくといいですよ。民族服を着ている方はたいてい偉い人です。日本人の出席者は大統領になりませんから要らないかもしれません」と余計なことまで不謹慎に囁いておいた。将来、クーデターを起こして大統領になる人、追っ払われる人、もしかすると殺される人も出るかもしれないから、メディアはそれに備えるべきである。その強烈な変化の中で独自の道を歩むのがアフリカというものの強さなのだ。

 会議はムセベニ大統領が時間に遅れてこられたので、1時間ずれ込んで始まった。スピーチの順序はまず私、次に笹川陽平理事長、それからカーター元大統領、ムセベニ大統領の順である。私が挨拶を終わると、ムセベニ大統領は壇上で私の話の原稿をよこせ、と囁かれる。

 カーター氏は原稿なしで熱弁を振るう。ムセベニ大統領は大変表現力のある方で、後で別室で笹川陽平理事長とお会いした時など、実におもしろかった。

 大統領「私は子供の時から、牛肉と、ミルクを飲んで育ってきました」

 私「贅沢ですね。日本人はそんな暮しはできません」

 大統領「私の部族は、鶏を食べることを禁じられています。食べると魂まで飛び上がると思われているから」

 私「大丈夫です。鶏は空を飛びませんから」

 大統領「だから私はこの頃、鶏は食べるんです。しかし私の父は、今でも私が鶏を食べるのに使った皿さえ使わない。汚れている、と思っているんです」

 私「クロコダイルの養殖場を拝見しましたが、肉は結構高いのですね」

 大統領「長い間、人間はクロコダイルに食べられて来たから、今仕返しをしてるんでしょう。仕返しということを日本語では何と言うの?」

 私「敵討ち」

 大統領「おおきに(これは大阪弁)」

 私「エイズは?」

 大統領「単純な病気です。ウガンダでは以前は30パーセントも患者がいました。しかし教育で8パーセントに減りました。割礼と授乳に気をつければ、かなり減ります」

 終わって大統領を囲んでの食事。しかし費用は日本財団持ちであった。


6月8日

 今度のアフリカ調査団が笹川アフリカ協会に依頼してアレンジしてもらった田舎の村の調査。まず東方のニエンガヘ。

 エイズのためのクリニックというから、一応の診療所らしいものを想像して行った人たちも、口をあんぐり、というところだろう。スレート瓦のせいぜいで10畳敷きほどの掘っ立て小屋がそれであった。壁がなければ、バス停の大きさである。ドクターの部屋、薬剤室も、それらしい設備は何もない。血液検査、カウンセリング室は、戸外の空間をただ葦簾で囲って、説明の紙を張りつけただけの場所である。

 エイズ患者の家を訪ねる。草葺きの一間の小屋の土間に、砕石場で働いていた20代の若い男性の患者が寝ていた。声もかすれていて力がない。妻と4カ月の男の子がいるが、エイズの検査は母子共にしていないという。殊に子供のエイズ検査は村の共同体としても勧めていない。プラスという結果が出ると、アフリカでは食事を与えなくなるので(つまり食料は一家の経済の上でも生きる可能性のある者だけが食べるということになっているので)逆にわからない方がいいのだという。患者さんに、私の持っていたメダイを上げて一緒に聖母の祈りを唱えて辞した。

 それから赤道を見に行く。道の上に赤線が引いてあるかもしれないから、などと言っていると、北半球では時計回り、それから5、6メートル離れて南半球に入ると時計と反対回りに水が渦を巻いて流れ出るのを見せている男がいた。それでいささかの金を稼ぐのである。

 昼ご飯は、道沿いの茶店で雨の音を聞きながら持参のサンドイッチとバナナと巨大なジャックフルーツを食べた。

 午後、ヴィクトリア湖の近くの村でとうもろこしの栽培状況を見る。この湖から流れ出る川の1つに、一昨日見たクロコダイルの卵の採集地があるはずだ。しかしともかく、ナイルの源流までよくも来たものだ、と思う。


6月9日

 ずっと彷徨い続けていた私のスーツケースの1つは今朝、財団の今井千尋さんがわざわざ空港まで取りに行ってくれてやっと戻った。このためにどれだけ手数をかけさせられたかしれない。

 朝、空港へ行く前に、食料品を売る市場へ行こうとしたのだが、豪雨のため、私はバスの中で怠けていた。行った人たちも思うように見学できなかった。

 午後3時、エンテベ空港発。1時間の時差があって、夕方6時、南アのヨハネスブルグ着。

 空港でフランシスコ会の根本昭夫神父に再会。待っていたバスは50人乗りの豪華バス。神父の説明によると、初め18人乗りくらいの小型バスを用意していたのだが、私たちの荷物も多いし、最近では小型バスがもの盗り強盗に襲われるケースが増えたので、大型にした由。

 ヴィクトリア・ピークの静かな住宅地の中の、カトリックの黙想の家が、これから3泊の宿である。「1泊20ドル(2千4百円)ですが、よろしいですか?」と神父に言われていたものだ。しかしこうしたカトリックの施設は清潔で温かい。夕食はちゃんと用意されているし、男女別々に分かれた棟にある浴室には、熱湯と水がたっぷり出て、部屋には寒くないように電気のパネルヒーターも備えつけられている。


6月10日

 朝、まだ暗いうちに全員でミサに与かる。

 夕方、安全のために早く帰着するには、朝も早くここをでなければならないのである。

 女子パウロ修道会で働いているシスター・マリア・ヴィアニイ(植山由紀さん)に会う。私の疑問にずっと誠実に答えてくださるすばらしく知的な女性。

 シャープスヴィルとポイパトンで、虐殺がどのようにあったか説明を聞きながら、惨劇の行われた住宅地を見た後で.「ボロコン子供の村」を訪ねる。つまり孤児の家である。ここに3歳から18歳までの子供40人がいる。親たちの失業、父親の不在、親のアルコール依存症、母親が家に引き込んだ男による激しいいじめや性的虐待、未婚の母の生活力のなさ、幼児労働、などの結果、市の認定を受けて入って来た子供たちである。

 園長の、ミス・タンディ!は、静かだが、仕事をしっかりしている、と私の鼻は嗅ぎつけた。カウンターパートにしたい一人だが……まだ向こうから要請があったわけではない。それにお金を出すまでには、まだまだ私以外の人々の調査が要る。お昼ご飯をここで頂いて、財団が持参したサッカーボールを贈ると、子供たちの体温が急に上がったように感じられた。体の大きい女の子が結構ボールを占領する。

 夜は、三井物産の網崎裕昭支店長のお宅に招かれて、ひさしぶりに日本料理をごちそうして頂き、その上、皆がめいめい専門分野の質問ができた。これが2番目の大ごちそう。

 アフリカ大使会議でヨハネスブルグに来ておられた駐マダガスカル日本大使・日向精義氏のお話によると、奥地でクリニックをしておられるシスター遠藤能子のところに、日本政府の援助できれいな診療所を建ててくださった由。こういうお金は決してむだにならないのである。


6月11日

 やはり早朝から、ブラックの人たちの住むソウェトヘ。数年前に来た時と違って、スクワッターと呼ばれる掘っ立て小屋はうんと少なくなった。すばらしいことだ。レジナムンディー教会、マンデラ氏の生家など訪ねるが、私は史蹟にはあまり興味がない。マンデラ氏の家は小さいが、浴室は2つあるから立派なものだ。

 午後はJVC(日本国際ボランティアセンター)の津山直子さんの案内で、ボックスバーグのスクワッター・キャンプを訪ねる。今でもスクワッターの標準面積は、一軒が2畳ないし3畳。電気なしの家もある。トイレは20人家族で3個の公衆トイレを使う。その傍に共同水道の栓が6個くらい並んでいる。トタン屋根にはタイヤ、石、ゴミ袋、古ホース、壊れた椅子、ベッドの頭の所に当てる板、古アンテナ、などが押さえに置かれ、しかもこのよれよれの古トタンで作った家の、これも恐らくはどこかから盗んで来たと思われるドアには、厳重な海老錠がかかっていた。
 

農業プログラム『笹川グローバル2000』について(笹川アフリカ協会ホームページへ)  


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