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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 三蔵法師の遺骨?日中のすがすがしい協力で  
コラム名: 自分の顔相手の顔 451  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2001/07/18  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   このごろの新聞は、時々「アジテーター」的な態度を人道にすり替えて示すことで、ことさらに国家関係や人間関係をこじらせている、と私は感じているが、あまり省みられない話にはおもしろいものもある。

 玄奘三蔵と言えば、『西遊記』の中の架空の人物と思っている人が最近ではいるというが、紀元600年か602年に洛陽で生まれ、664年に長安で死去し、洛陽郊外に葬られたということが判明している。しかし11世紀にその遺骨は、頭の部分だけ弟子たちによって南京の天禧寺の傍らに葬られた。

 昭和17年12月23日、当時南京に駐屯していた高森部隊が、たまたまその墓を発掘したのである。石棺には経緯が詳しく記されており、副葬品もそっくり出土した。

 昭和18年2月23日に、遺骨は一切の副葬品と共に、南京政府(王精衛政権)に返還された。これが非常に喜ばれたのは言うまでもなかった。そして翌年には南京郊外の玄武山に塔も建てられ、日中双方から重光大使や仏教界の代表者が出て盛大な式典が行われた。その後の経緯については私にはよくわからないが、遺骨は今までは麓の霊谷寺に葬られているという。

 その時、発見者である日本にも分骨の申し出があり、昭和19年10月、遺骨の一部は日本にも持ち帰られた。遺骨は一時、埼玉県の慈恩寺にまつられていたが、戦後の生活の厳しさの中でなかなか落ち着く先も決まらない時代を経て、最終的に薬師寺に収められたのである。

 戦争直後、遺骨といえども戦争中に外国から持ち帰ったものは返還しなければならないのではないか、という問題が起きたが、昭和21年、当時の蒋介石政権から正式に「ご頂骨は返還しなくてもいい。広く顕彰することは、むしろ喜ばしいことである」と改めて通達されるという経緯もあったという。

 現中国政府からみれば、玄奘三蔵や仏教など全く関心がないのだろうが、この玄奘三蔵の遺骨に関する高森部隊と当時の中国政府の関係は、伝えられるかぎりではまことにすがすがしい。玄奘三蔵の石棺は学術的に見て貴重な発掘品だろうし、副葬品も出土した。それらは日本の軍関係者が勝手にしようと思えばできた状況にあっただろうが、それらはきちんと尊敬と礼儀を持って返還された。南京で虐殺があったと言われる昭和12年から、5年後に起きた話である。当時、南京事件は現地ではどのように伝わっていたのだろう。
 



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