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「週刊文春」の七月五日号が、「宅間守の父がマスコミの差し入れの酒で連日酔っぱらっている 呆れた取材現場を告発する」という記事を載せた。宅間守というのは言うまでもなく池田市の小学校に刃物を持って押し入り、児童八人を刺殺した犯人である。
記事の内容は次のような文章で始まる。
「マスコミからもらった酒飲んで取材受けるのは、おかしいんじゃないですか」
これは「週刊文春」側の問い。
「酒、酒言うなよ。ビールやないか。ビールでは酔っぱらわへんがな」
「そもそも、マスコミからの差し入れがあること自体がおかしいと思いませんか?」
「知らん。お礼やから。協力ありがとうございましたというな。それがおかしかったとしても、そりゃ、あんたらの倫理観や。ワシはそんなあんたらの倫理観を百パーセント持ち合わせてるはずあらへん」
私はこの記事を読んだ時、「週刊文春」側の発言に、違和感を感じた。
宅間はめったにない凶悪な犯罪を犯したのだが、そうした人格ができた背後の父親との関係は、外部の私にはわからない。週刊誌が書いているじゃありませんかと言われても、私はそうした記事を信じたことがない。なぜなら、自分の体験に照らして、人は他人を理解することなど、ほとんどできない、と知っているからだ。
遺族からみたら、父親でもいいから復讐をしたいかもしれないが、法治国家では、父親は一応別人格だ。記者は父親に対して「刑法上の責任はないものの、容疑者の父としての道義的、社会的責任は到底免れない」と書いているが、私はそうは思わない。よくしようとしても箸にも棒にもかからなかった子供というものが、最近の犯罪にはつきものだ。ただその程度はわからないし、この親子にどんな葛藤があったのか、取材記者も私たちも部分的にしか知ることはできていない。
マスコミは押しかけた。宅間が高校時代に書いた大学ノートを父親から借り出した報知新聞の記者が、そのお礼に二十四本入りの缶ビールを差し入れている現場を「週刊文春」の記者は見て、それも非難している。
しかしいかなる人のものであれ、利益をあげるために使わせてもらったのなら、ビールどころかきちんとした原稿料か取材お礼を払うのが当然だ。それをしないマスコミは火事場泥棒である。
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