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「週刊文春」は小学生八人を殺した宅間守の父親の話を取材して、何一つお礼をしないのが自社のルールだと胸を張ったような語調で私に答えたが、これは非常識というものだと私は思っている。
何はともあれ、人の時間をつぶし、自社はそれで週刊誌を売って利益をあげたのだ。「週刊文春」は純粋に社会主義のために記事を書いたのではなかろう。犯罪者やその周辺からなら、資料をただで受けて使うのが正義だということはない。それはマスコミを知らない宅間の父の無知を利用して、各社が無礼にも安く記事を作ったというだけのことだ。
誰であれ、その人しか持っていない知識をもらって自分の仕事に使った時には、ビールなどでなく必ず金銭で応分の謝礼をすることが礼儀だ。相手がいかなる人であれ、である。宅間の父がその金をどう使うかも、出版社の与り知るところではない。この「週刊文春」の記者の論理によると、「犯人の父」は普通の人の受ける権利や礼儀を一切奪われて当然、それが社会主義だということになる。
昔の文藝春秋社の編集長たちなら、殺人を犯した息子の父親が、取材記者からもらった酒を飲んで酔っぱらっていることに対して、もう少し別な視点の持てる人間的な記者を望んだだろう。
「じゃ。このおやじさんが、酒飲む以外に自分の気持ちを救うどんなましなことができるか、お前、考えたか?」
と彼らだったら言ったに違いない。
もし謝罪に行けば「あんな人殺しの子供を育てておいて、どの面下げて誤りに来たのだ」と遺族たちは怒り、罵倒し、殴りかかる人もいるかもしれない。それをじっと抑えた人でも「今さらあんたの顔なんか見たくもない、帰ってくれ」と言う可能性は強い。
誤りに行かなければ「息子が八人も子供を殺しておいて、親が謝りにも来ないとは何事だ。来て土下座して謝れ」とどなられる。ほんとうにどうしていいかわからない。
だから私が犯罪者の父でも、宅間の父と同じことをするような気がする。事件の重みを受け止めれば受け止めるほど辛くなり、もらいものの酒で飲んだくれ、時には記者を相手に自己弁護的気炎まであげて瞬間的にいい気になって笑うことで、この一瞬をどうやらごまかして生きるのだ。しかし現代の正義感に燃えた怖いもの知らずの記者たちは、宅間の父は、ひたすら酒なども控えてひっそりと暮らし、謹んで謝りに歩くべきだ、と迷わないのである。
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