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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 与那国島の“花の酒” 日本国の西の端を訪ねる  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/03/14  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ヤシガニラーメン
 沖縄県の与那国町に出かけた。昨年の六月のことだ。黒潮の源流の海域にあるこの島から、晴れた日には台湾が見える。東京から千九百キロ、沖縄の県都、那覇からは五百九キロ、日本国の最西端に位置し、台北よりも南にある離島である。日本列島の行き止まりであるこの島に行くと、私のような“本土の人”にとっては「日本国は広くて多様である」という月並みな感想にとどまらず、「沖縄とは一つではない」ことが実感できる。
 東京からこの島に出かけるには、八重山諸島の石垣島で、飛行機を乗り継ぎさらに百二十キロ、南に飛ぶ。那覇のある沖縄本島からも同様で、四百キロも南西に飛び同じく石垣島に行かねばならない。那覇にとっても与那国は僻地なのである。「ホウ。与那国に行くんですか。何しに?」。前夜、芋焼酎を媒介にして“本土”と沖縄関係について琉球放送の人々と激論したのだが、『与那国』のひとことで論争は水入りとなった。「ヤマトンチュウは琉球をわかっておらん」一本槍の本土向けの攻勢が、突如として萎えたのである。
「あの島には、世界一大きな蛾がいる。花酒という那覇より強い焼酎がある。海底に古代遺跡が発見された」というが、島を訪れた経験をもっているのは、酒席をともにした四人のうち二人だけだった。与那国は、沖縄本島からも、それほど遠い存在なのだ。翌日、石垣から六十四人乗りの「YS11」で、この島を訪れる。JTA(日本トランスオーシャン航空)の機内誌をめくっていたら、「この島への年間交通量は、一日二便の飛行機で三万人、船で千五百人」とあった。観光客のみならず、島の人々の石垣島への往来も含まれた数字だ。“鳥も通わぬ”ほどではないが、周囲二十七キロ、人口千七百五十人、医師二人、看護婦二人、車九百二十三台、船七十六隻(与那国町誌による)をもつ離島である。
「国境」という名の食堂で、この島で「入船」旅館をいとなむ新嵩喜八郎さんら地元の人々と食事をする。カジキのトロの刺し身、ヤシガニのブツ切りがたっぷり入っているラーメンに唐辛子入りのラー油をしっかりとかけて、これを肴にアルコール度六〇%の焼酎、「花酒」を飲み交わしたのである。「カジキは町の魚です。アッ、世界一大きな蛾ですか。羽根を広げると二十センチある。“よなくに蚕”です。町の蝶に指定してます。町鳥はメジロ、町の花ですか。鬼ユリです。町木はサルスベリ。原産は中国だが、この島では大きく育つ。四メートの亜高木です」と新嵩さん。
 ところでこの食堂の名称「国境」とは、台湾との国境をさしている。沖縄の本土復帰以前の昭和二十年〜三十年代は、与那国の“大密貿易時代”だったという。人口も今日の六倍の一万二千人が住み、沖縄の米軍の物資(チョコレート、ウイスキーなど)、後には日本の家電製品を求めてやってくる台湾漁船との間にバーター方式の盛んな密貿易に従事、成り金が続出したという。与那国の隣の島、石垣には本格派の中華料理屋が二つもあるが、その時代の置き土産だ。
 日本に「離島」というものは数々あるが、与那国は、そのなかでも北海道の島々と並んで最も長く古代が続いた島だと言ってよい。町役場でもらった町勢要覧の『与那国創世の紀』を読んで、そう思った。この島に関する最も古い記録は、一四七七年、李朝朝鮮時代の『成宗実録』である。この書物は済州島の三人の漂流漁民の体験をもとに書かれた朝鮮の書物だ。与那国には文字がなく、これが最初の記述である、町勢要覧には次のようにその一部が転載されている、「もっぱら稲米を食べる。飯は竹筒に盛って拳大に丸め、木の葉に飯塊をのせて食べる。塩醤の類はなく、海水を菜に加えてあつものを作る。酒は米をかんで木樋に入れて醸し、麹は使わない」「漂着すると、草を刈り庵を結び、住まわせた。部落の人が輪番で食事を共にした」「常に小槍を携行す。盗賊はなく、道に落ちたものは誰も拾わぬ。舟には帆があるが櫓はない」と。
 
沖縄は一つではない
「まさにそこには、平和な化外の地、古代があった。」のである。ところがそれから二十年後、琉球王府の勢力が南下し、無主の地を併呑しようとした。「サンアイ・イソバの山に行きましょう」。新嵩さんがいう。車を山の中腹で降り、蒸し暑さに辟易しながら、密林の細道を登ると、サンアイ・イソバが寝ていたという岩があった。巫女であり女酋長であったサンアイ・イソバは島民を指揮し、上陸した琉球王府の軍隊を撃退したという。隣の島、石垣にも赤蜂という名の英雄が実在し、琉球への貢物を三年間拒絶し、琉球軍と闘ったが、多勢に無勢、やがて与那国も石垣も八重山諸島はすべて、琉球つまり沖縄本島の版図に組み入れられた。
「沖縄とは一つではないことを実感する」。この旅行記の冒頭に私はそう書いた。日本国沖縄県の島々は、まず第一にそれぞれ異なる歴史をもっており、そしてそれが異なる生活と意見を形成していることを知った。征服者と被征服者の関係でみると、八重山諸島を征服したのはヤマトンチューの薩摩ではなく、那覇の琉球王府だった。石垣から八重山へ。たった二泊の旅だったが、“本土人”を見る目が、那覇で会った知識人たちのような厳しさを感じなかったのは、こうした歴史的背景の違いに起因するのかもしれない。
「いや、そうではない。あの島々には、米軍基地がないからだ」と琉球の知識人は反論するかもしれない。確かにそれはあろう。だが、それだけではないような気がしてならない。石垣をはじめ八重山諸島の人々は、むしろ、沖縄本島の文化に対抗意識をもっているようにも思えた。
 琉球王朝の版図に入ってからの与那国には悲しい物語が多い。琉球王府は新しく傘下に収めた与那国を含む八重山諸島から貢物をとっていたが、十七世紀の初め薩摩の島津氏が王府を支配下において以来、人頭税が作られ徴税は苛斂誅求を極めた。琉球は薩摩に貢物をおさめるため、八重山を搾れるだけ搾った。町誌によれば、二戸当たりの米の収穫が約五石、このうち四石(一石は約百キロ)は、人頭税として琉球王府にもっていかれたという。この税制は、琉球が日本に編入された明治の初年までつづいた。
 人頭税にまつわる与那国のトング田の伝聞は、悲劇を通りこして凄惨そのものである。この町の観光課長の「マエナ」さん(名刺をもらわなかった)の運転で、山の中の田んぼにつれていってもらった。浅黒いマエナさんの風貌は、ちょっとポリネシア風であった。トングとは度量衡のマスのことで、村の役人はドラの合図で、一斉にこのテニスコート一面ほどの狭い土地に島民を招集したという。トング田に駆けつけられなかった者、あるいは遅れて集合し、マスからはみ出た者は、不見者もしくは耕作不能者と烙印を押され、人減らしのため殺された。ちょっと信じ難い伝説だが、「本当の話だと聞いている」とマエナさんはいう。
 こうした薩摩→琉球→与那国の過酷な支配構造のもとで、この島の直接の支配者は「ヤマト」ではなく「琉球」であったことが、八重山諸島の人々の反本土感情が、琉球王府のあった沖縄本島よりも薄いゆえんなのだろう。沖縄本島に「日本に編入されて以来、ろくなことはなかった」との思いから、「沖縄独立論」を唱える人々がいる。今回の旅行で石垣から行動を共にした八重山の知識人にそのことを尋ねた。「そういう人は、八重山諸島にはいない」との返事が返ってきた。「那覇より東京を選ぶのか」。そういう馬鹿な質問は思いとどまった。八重山諸島の文化と歴史、それはヤマトがつくった「日本」のそれとは明らかに異なっている。だがヤマトの「日本」ではないとしても、八重山はれっきとした日本であることは、自明の理だからである。
 
謎の海底遺跡
 私の与那国紀行の目的は、沖縄論を展開するためでなく、この島で開催された、「島のアイデンティティを模索する公開講座、やしの実大学(笹川太平洋島嶼国基金・与那国町共催)に、共催の石垣市文化協会の人々とともに参加することであった。テーマは「太平洋の古代文明と与那国の謎の海底遺跡」である。ダイバーでもある新嵩さんが、与那国の海底三十メートの地点で東西二百メート、南北百五十メートほどの古代の神殿らしきものを発見したのが始まりだ。新嵩さんとともに何度も学術調査に加わった木村政昭・琉球大教授が、公開講座の席上、自然物ではなく人工的な建築物である可能性がきわめて高い。陸上にあった神殿が有史以前に地殻変動で海底に沈んだと考える」と発表、会場にどよめきが起こった。
 全員で遺跡現場のひとつ、サンニヌ台に出かける。人が削ったようなテラス、石垣、そして階段らしきものが海中に延びている。限りなく古代遺跡のように見える。
 一同、花酒で乾杯。この日本一強烈な焼酎に「花酒」と優しい名前をつける夢多き島の人々。それはこの小さな島にとてつもなく大きなロマンがプレゼントされた瞬間でもあった。
 



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