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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 柵の内側?生死すら場あたり次第の判断  
コラム名: 自分の顔相手の顔 293  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/12/07  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   パキスタンのラホールで、残酷な事件が起きた。英字新聞に出ていた話である。
 一歳半になるアブダラ・アフザルは、両親に連れられて動物園に行った。目撃者の話によると、両親は手前の網のフェンスを越えて、黒いヒマラヤ熊の檻のすぐそばまで行き、子供と熊を握手させようとした。すると熊は突然、母親に抱かれていた子供を襲った。
 熊は子供の足を自分の前足と顎で掴み、檻の中に引きずりこんだ。もちろん両親と周囲にいた人々は、叫びながら子供を引き離そうとした。しかし熊はいきり立ち、両親の目の前で子供を真っ二つに裂いた。どんな思いだったろう。
 目撃者の群衆は怒って、熊を殺そうとした。しかし警察は、彼らにそのような暴挙を許さなかった。むしろ彼らは、子供の死はそうした危険に近づけた両親の責任だとした。
 園長のアーシャッド・ハルーン・トゥーシは、熊は人食い熊ではないので、子供を食べたりはしなかった。そして動物園は熊を殺すことはしないだろう、と付け加えた。
 写真で見ると、熊の檻は柵の間隔が十センチちょっとだろうか。もちろん熊は鼻の先をこの柵の間からほんの少し出すことができるくらいである。その外側、一・八メートルのところに二・一メートルの高さの網のフェンスが張ってあって、人々はその外から熊を見ることになっているという。
 この若い父母はよほど運動神経のある人たちだったのだろうか。私は若い時だって、二・一メートルの高さのある網のフェンスなど、死物狂いになる理由でもなければ、とても乗り越えられないと思う。おそらく父が、若い母を助けて、おもしろ半分に網の塀を乗り越えて熊の檻に近付いたのだろう。
 この事件は複雑な現代の矛盾を見せつけている。現代は「動物となかよし」になるのが流行である。テレビではいつもヤラセが問題になっているが、人間と動物との人間並みの交流をテーマにしたテレビや映画は、その多くの部分を、偶然、やらせ、トリックなどで巧みに繋いだものだ。しかも現実と架空が判然としない人が多くなった。熊と握手できるのは、ディズニーランドの縫いぐるみだけだ、ということを人々は忘れるのである。
 実際にムツゴロウ先生こと畑正憲氏のように、動物とキッスしても噛みつかれず、じゃれ合っても爪を立てられない人などというのは、どこにでもいるものではない。どこにでもいないから、先生の存在が価値あるのである。私など、知人が飼っているドーベルマンに胸まで足をかけられ、顔をぺろぺろなめられただけで、恐ろしくて体が硬直した。
 柵の内側には入らない、という常識と規則は、破った方が悪い、としても当然である。一方で動物愛護を言いながら、一方で規則を破った人間が噛み殺された場合には「熊を殺せ」と言う。矛盾の多過ぎるその場その場の判断を、何とか整理できないものだろうか。
 



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