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一九九七年四月十三日 エルサレムから、死海の西側、「ジンの荒れ野」の北部に当たる砂漠の中のマムシート村に出発。砂漠の中の遊牧民のテントに野営するのである。新約聖書に十三ものすぱらしい手紙を残した聖パウロもテント作りを仕事にしていた。その頃と同じ製法である。天井の黒い部分は山羊の毛で織ったもの。周囲を囲う壁の部分の茶色はラクダの毛、黄土色は羊の毛である。 この野営の企画はサハラを縦断した時の体験を元に、私が提案して去年から始めたものである。ほんとうは何の遮蔽物もない荒野に泊まりたいのだが、何しろこちらは車椅子や盲人、九十六歳を含む高齢者や手術後の方たちも含まれているので、荒野で風に吹かれると寒さが身に堪えるだろうから、テントはあった方がいい、と判断したのである。風速一メートルにつき、体感温度は一度下がるというから、砂漠で風に吹かれることは、かなり辛いことなのである。 それに砂漠は誰でもがどこにでも自由に泊まっていいというわけのものではない。オアシスは必ずどこか特定の部族の厳密な管轄下にあるから、サハラのように全く水のない場所以外、すべての土地はどこかの部族の「領土」と見なすべきなのだ。だから私たちから見れば誰もいない荒野に宿営をする時でも、必ずどこかの部族に「仁義」を切らねばならない。 それに、一人や二人ならいいけれど、六十人あまりが砂漠で「自然が呼んでいる」という状態になったら、周囲の土地をかなり汚すことになるから、この商才のたくましいベドウィンのように、水洗トイレの別棟がある方が、合理的というものだ。 長さ三十メートル近い一張りのテントの砂の上に、うすべりのようなものを敷き、その上に三列にマットレスを置いて、寝袋一つにくるまって寝る。星と天の川を天蓋に、戸外に寝ようが自由だが、今日は曇り空である。 このうすべりの存在は極めて重要である、寒い時期、砂漠の民たちは、羊などの家畜を家やテントの中に引き込む習慣がある。家畜と人間の居住部分をどこで区別するかと書うと、この敷物があるかないかなのである。 夕食はアラブ式のパンに羊の焼肉とピラフ、本当は不浄な左手は使わずに右手だけで食べるのが礼儀なのだが、そんな器用な真似は日本人にはできないので、左手ものんきに使って食べる。 食後は、砂漠の静寂を聞きたい人と、音楽をやりたい人との二手に分かれる。少し離れた場所に火を焚いて、そこが音楽組。私は砂漠では音楽は聴きたくない。この生気に満ちた静寂はここでしか味わえないのだから。 四月十四日 朝、三十分ほど、隊列を組んでラクダの遠乗り。ラクダに乗ると、眼の位置が地上三メートル近くになるから、かなり怖い。ほんとうは角のようなサドル・ホーンに「右脚をちょっと曲げて掛けて乗るのよ」と教えたら、日本財団から来てくれたボランティアの一人が、「足が届きません」と言う。鞍の作りが少し違うからなのだが「それは足が短いからよ」とイヤガラセを言っておく。 岡の上までたっぷり三十分乗ってほんとうによかった。皆、骨の髄まで、ラクダがいかにラクでないかよくわかっただろう。九十六歳の宇田チヨさんも、若い孫のような田端孝之神父に後から抱えられてラクダの旅を味わう。神父が前屈みになってチヨさんを抱いているのだが、見た眼には、神父が死物狂いでチヨさんにしがみついているように見えるので、おかしくなって皆でからかうことにする。しかしこの姿勢で三十分ラクダに乗ることは、かなり辛いはずである。 その後、死海へ。風船のように太った女性たちが、死海で水浴をしているのを見ながら「そんなに食べたらああなるよ」とわかっているのに、私は皆にナイショで、ファラヘルという豆コロッケをパンに挟んだものを素早く買って食べる。安い食べ物だが、これを食べないと、イスラエルヘ来た気がしない。午後は部屋に閉じ籠もって原稿書き。 四月十五日 死海からガリラヤ湖へ。 文字通り、荒野に象徴される旧約の「怒りの神、妬みの神」の世界から、花咲き乱れる新約の「愛と許し」の神の世界への移動である。 いつもここで「死海は取り込むだけで決して与えようとしないから、周囲は荒涼とした死の世界になる。しかしガリラヤ湖とそれから流れ出すヨルダン川は、惜しみなく周囲に水を与えるから、そのほとりには木々が繁り花が咲き乱れる」という言葉を思い出して皆に話す。 もっとも死海にしたらいい迷惑だ。海面下四百メートルではどこへも流れて行きようがないのだから。自分のせいでもないことを、訓戒の材料にされてはたまらない。 ガリラヤ湖畔の光溢れる教会の庭で、向坂孝、俊子夫妻の洗礼式。向坂氏は癌を病み、将来に不安を抱いている。しかし癌だけは、健康な人が突然冒され、諦めていた人が生きる不思議な病気だ。決めるのは神のみ。カモメがお祝いを言いにか岸に近づく。
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