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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ココ椰子に登る菌  
コラム名: 地球の片隅の物語 第三十三話  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 1997/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   先日ラオスという国に初めて入って、『ヴィエンチャン・タイムズ』という新聞を手に入れた時は嬉しかった。この連載のための資料は、シンガポールの『ザ・ストレイト・タイムズ』に拠っているのだが、時には他の新聞も読みたい。編集部は優しく他の新聞で読みたいものがあれば何紙でもどうぞ、と言ってくれている。しかし私の語学力では、とてもたくさんの横文字新聞など読み切れない。
 ラオスに行ったのは、私が今働いている日本財団が、薬の援助をしているからである。薬の種類は駆虫剤とか鉄剤とか熱さましとか基本的なもので、それを主に地方の保健所や病院に配る。それを患者さんたちに売ったお金で次の薬を買い入れるリボルビングという方式を採っている。
 その薬が申請通り、果たして末端まで届いているかどうかを調査するために行ったのである。今までに何度も書いたことがあるのだが、私はこういう援助に関しては誰に対しても「人を見たらドロポー」と思わねばならない、という態度でいるので、財団に行ってすぐ会長直属の「忍者部隊」を作った。これはあらゆる職種から、適材と思われる人物を探し出して来て、外国の援助先に対してぬきうち監査をするのである。
 どこの国にも中央の官庁には秀才がいるから、予告すれば資料を整え、地方からももっともらしく関係者を呼び集め、間違いなく薬は届いております、となるに決まっている。
 それでは真実が見えないので、忍者はいきなり末端から調査を始めることが肝要である。突然訪ねて行って名刺を出し、「時に薬は果たして来ておりますか」と聞くのだ。
 ラオスの人たちは皆穏やかな感じのいい人で、私の突然の訪問をどこも断らなかった。ただし薬の配付に関しては、必ずしも報告書の通りではなかった。ベルギーと日本の薬を入れたことになっている保健所が、タイとラオスの薬しか入っていない、と言明したり、フランスからは大量の薬をもらったが、日本のプロジェクトは全く入っていない、と言い張ったりしている。もちろん報告書通りの薬がきちんと入っている所もあったのだから、決して単純に決めつけたりしてはいけないのだが、調査は末端から始め、符合しないところがあったら、はっきりするまで再度強力に報告を求めるというのが一つの原則である。
 ラオスには、今でも危険な地域があるということで、私たちは南東都に行くのに、オウム真理教が買ったのと同じロシア製のヘリコプターをチャーターしなければならなかった。幹線道路には、峠のカーヴみたいなところに、のんびりと銃を持った兵隊がいることもあるけれど、概ね安全なのである。しかしそこから脇道に入ると危険がないわけではない。
 ラオスは海のない国である。海のない国の不運についてはいつかも書いたけれど、ほんとうに気の毒なことだ。海がないということは、大量の貨物をすべて陸路で運ばなければならない、ということで、道路の整備がよければいいのだろうが、インフラが悪いと、すべての産業が伸びにくい。
 タイとの間に流れているメコン河が、ラオスの大きな資源であり、交通の手段になるわけだが、『ヴィエンチャン・タイムズ』には、河で国境を隔てる国の苦労話がちゃんと出ている。
 ラオス外務省のアジア太平洋課はタイ大使館のトゥング・ムクダシリ氏を呼び出して、タイの砂利業者がメコン河から、無許可で砂利や砂を採掘していることに対処する会議に出席するように命じた。サバンナケット県のランコンペン地方のケン・コンノイと呼ばれる急流の北の人気のない土地で、もう五年も前から、タイ人のソムチャイと呼ばれる人物が、メコン河に沿ってラオス領に二百メートルも入って、砂利や砂を無許可で採掘していたというのである。
 眼に見えるような光景である。ラオスには、どこにでも人家があり、人の姿が見える、という人がいるが、それでもその辺の人は、突然見知らぬ男が砂利の採掘を始めても、そんなものか、と思って見ていたのであろう。ラオスは歴史的にも現在もタイと切り離せない繋がりを持っているし、ラオスの言葉はタイ語と非常に近いというから、さして違和感がなかったのかもしれない。しかしラオスではいつもすばしっこいタイ人にしてやられることが多いのだろう。もし日本人が他国と河一つで接していたら、ねばりに欠けるわが国民はきっとノイローゼになっているだろう。私は新聞を読みながら、日本の島国根性がどうやら保たれる国の形を、改めて感謝したのである。
 もう一つおもしろいのは、ライに関する記事である。
 一九七一年に、私は新聞小説を書くために、インドのライ病院で、実地に勉強をした。その頃インドの人口は六億人あまりで、患者は推定五百万人いた。百二、三十人に一人がライ患者だったのである。しかし今では全世界でライは百三十万人ほどしかいない。
 当時から、ライは日本ではもう簡単に治る病気であった。「治らないという点では、水虫の方がずっと大変ですよ」と一人の水虫持ち医師は私に教えてくれた。
 今でも日本で、新しいライの発病は皆無ではないであろう。両親が駐在員として東南アジアで過ごすと、その幼い子供が土地の乳母さんやメイドさんに抱いてもらうことがある、それらの雇い人がライであると、五年十年経ってから子供が発病することもありうる。
 ライの初期は??私は医師ではないから不正確にしか言えないのだが??手首や背骨に沿った部分に薄い脱色斑が現れることが多い。素人にはシロナマズの方がずっとライに見えるが、隆起の仕方が違うのである。
 しかしその段階でライだとわかっても、全くどうということはない。ほんとうに確実に短期間で治る。一年に一度飲めばいいという予防薬もある。
 日本財団では、笹川良一前会長が、二十一年前からWHOと組んで、ひたすらライ対策に心とお金を使って来た。そして西暦二〇〇〇年には、ライに関してほぼ終息宣言を出せるまでになった。終息の定義は、患者の数が一万人に一人になった時にはそう言ってもいいだろう、ということなのだそうである。天然痘についで、一つの病気を人為的に終焉に向かわせることができる。これは一つの清々しい事業であった。
『ヴィエンチャン・タイムズ』は「ライは治る病気であり、十年前よりさらに効果的に早く治るようになった」と書き出している。一九九八年一月二十六日が「世界ライ制圧デー」として定められていて、今その日に向けて各国が活発な動きを示していることを私はこの記事で初めて知った。
 おもしろいのは、それから先の記述なのである。ラオスで、ライが無知と迷信の中に置かれていた時代の物語的な記録がここに残されている。
 ラオスでは昔からライだとわかると、気の毒な病人を村の北側か川の側に一人で住まわせた。もちろん病気が伝染するのを恐れたからである。
 人々はこの病気は、常に北に向かって進む性質があり、同時に樹木、特にココナツ椰子に登る特性がある、と考えた。ライ菌はココナツのジュースが好きで、それを飲むので、患者のいる家のココナツは食べたり飲んだりしてはいけない、と戒められた。
 ココナツの話が出たので思い出したのだが、一九六〇年初めて中南米の旅に出た時、私たち夫婦はガテマラで二人のアメリカ人の男たちに会った。今にして思うと、彼らは自然食信者であり、もしかするとホモだったが、当時の社会にはまだそういう意識が一般的ではなかったし、私も若くてそんなことにとうてい気が回らない、という幼さであった。
 彼らはピストルを車の中に忍ばせており、私たちにも「どうして武器を持たないのか」と尋ねた。自然食信者でも、彼らは自已防衛ということに対してははっきりした態度を持っていた。
 しかし彼らは私たちに親切で、いろいろな助言をしてくれた。その一つが、アメリカ合衆国を出れば、安心して飲める水は一滴もないこと。自然の水で安心して飲めるのは、ココ椰子の中のジュースだけだということだった。それほど安心なココ椰子の実にライ菌が入り混むなどと考えたのだから、迷信というものはほんとうに困ったものである。
 この迷信のために患者は一万人にも増えてしまったのである。病気が少しも恐ろしいものでなく、早く治療を始めれば、確実に簡単に治るのに、ということを新聞は書いている。しかし教育が必要なのは、村に住む人々で、英語を読めるような人たちはこんな常識はもうとっくにわかっている。
 一九九六年に手当てを受けた患者の約三〇バーセントは気の毒に手遅れで、ライそのものの病状ではない第二次的な障害が残ってしまった。つまりライは放置しておくと、麻痺が残るから、手や足に怪我をしても痛くない。そこで傷を消毒したり庇って歩くというようなことをしないから、そこが化膿して、指が欠損するようなことにもなるのである。この第二次の欠損状態を元に戻すにはかなり手がかかる。殊に瞼が閉まらなくなる麻痺のために眼が乾いて、そのために視力を失う人もいる。私がインドで見た患者さんは、可哀想に瞼を半分縫ってあった。そしてこのようにして明らかに残った第二次障害を、ライそのものだと勘違いして、人々はまた患者を避けるようになったのである。
 この新聞の十六ページには白い頭巾で頭を縛ったしっかりした婦人の写真が載っている。彼女の廻りは、楕円形の西瓜で埋め尽くされている。
 ソンパン・ブンマニー(六十歳)はヴィエンチャンの近くのササタナック地区ポンサバン村に住んでいた、普通なら孫のお守りをしているような年のこの婦人は、突然ビジネス・ウーマンに転じたのである。彼女の所には一月に二度、これも一人の女性が三千個ずつの西瓜を持って来る。一個の西瓜は百円ちょっとの仕入れ値段なのだが、彼女はそれを二百円ちょっとで売る。道ばたに商品の西瓜を並べるための土地は一日三百五十円くらいで借りる。その結果の儲けが、どうも新聞の記事ではどこかに誤植があって辻つまが合わないようなのだが、それをそのまま信じれば、彼女は月に約三万円ちょっとの利益を得るというのである。(たぶん一回に扱う西瓜は三千個ではなくて、三百個なのだろう)
「ヴィエンチャンの暮らしは高いしね。果物を売ることだって過去二年間はとてもむずかしかったのよ。市場での競争が激しいからね」
 それでもソンパン夫人は、西瓜を売り続け、そして大変にハッピイなのである。
 ラオスヘ行く前は、この馴染みのない国の表情の一部も私には見えなかった。しかしこういう新聞記事があると、ふっと、生活はどこでも同じなのだなあ、と親しさを感じる。
 シンガポールの『ザ・ストレイト・タイムズ』の方に戻ると、一つの老夫婦の物語が胸を打った。
 クウェック・キム・チウィー(八十八歳)と口ー・シャイ・ワー(八十三歳)は六十五年を一緒に過ごした夫婦であった。夫妻の長男であるリチャード・クウェック・キアン・クーンは二人の死の二週間前に、父に呼ばれた。
「お母さんはあんまりよくないね。大変苦しがるしね。でもまだがんばっているよ。まるで二人でいっしょに行けるのを待ってるみたいだ」
 母はパーキンソン病で、八カ月間床に就いたままであった。元気な時はバッファロー街で砂糖黍のジュースを売っていた父は、癌の末期だった。
「そんなことはありませんよ
 と息子は父の言葉をその時は打ち消した。
「しかし今になって考えてみると、父は一番はっきりと状態を知っていたのかもしれませんね」
 三男によると、父が死んだ時、子供たちは母の部屋の前で、誰が母にこのことを話したものか、ためらっていた。
 しかし死の床にあった母は、この様子を聞いていたとしか思われなかった。誰もそれを告げなかったのに、母は無言のまま涙を流し、それからちょっと口を開け、そして閉じた。それが最後の呼吸だった。
 二人は中国で、親戚が準備した結婚をした。そして二人の子供を抱えて、マレーシアのジョホールに移民して来た。日本の占領時代に彼らはシンガポールにやって来たのだった。
「喧嘩もしましたが、寄り添って生きていた夫婦でした。子供たちに食べさせるために母は食事を抜いていたこともありました。決して荒い言葉を口にしなかった、優しい人でした。父といっしょに死ねて幸福だった、と人は言います」
 ほんとうに幸福も不幸もどこにでもあるのである。
 



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