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日本人は桜のことになると、奇妙なほど夢中になる、と思うこともあるけれど、私も今年は、毎年恒例になっているイスラエル旅行が少し遅めに出発することになったので、思いがけず桜が九分咲きの日に、靖国神社にお参りすることができた。 沖縄の慶良間列島で闘った旧陸軍の方たちと、私は昔知り合った。昭和二十年、渡嘉敷島の集団自決として有名になった事件を調べている時、島民の方たちからだけでなく、軍側からも取材したのである。今年も亡くなった戦友への思いを胸に靖国神社に参拝されることになって、私にも声をかけてくださったのである。 参集所というところで参加者を待っている時、今まで全く気がつかなかったものの説明を受けた。部屋の周囲の戸棚の上に、ガラス・ケースに入った花嫁人形がたくさん飾られているのである。戦死した息子に現実に許婚者がいたのか、それとも、いつの日か必ずこういう嫁が来たはずだ、という思いが親にあったのか、初め一体が奉納されたのだが、その後どんどん数が増えた。中には一人で三体の花嫁人形を持って来た人もいた。三人の息子たちはすべて戦死したのだが、彼らが淋しくないように花嫁人形も三人分必要だったのであった。 前にも書いたことがあるのだが、私の知人で、時折靖国の近くを通りかかる度に、お参りに寄るという人がいる。闘いに明けくれた青春の日々に、多くの友人が命を落とした。自分は生き残ってしまった。その後ろめたさがいつも彼を靖国神社に向かわせるのであった。 「靖国神社に一人でふっと立ち寄って、昔の友達に近況を報告しに来る人は、戦争の残酷さと辛さを身にしみて知っているんですよ。だからそういう人こそ、心底、戦争を忌避してるんですけどね」とその人は言った。閣僚が靖国神社に参拝すると、戦争礼讃だという簡単な論理を、私も信じていない。ほんとうは逆なのである。 生きていたなら、ごく普通の結婚をさせて家庭というものを味わせてやりたかった、という親の思いは悲痛である。それは慎ましい、ありふれた、静かな願いだった。それさえも叶わなかった痛ましい青春に対して、私たちはどう弔ったらいいのだろう。花嫁人形は鬼気迫るものさえ感じさせた。 帰りに、私は千鳥が淵の無名戦士の墓に立ち寄った。ここに祀られている名を知られていない死者たちを思うと、私はただ頭を垂れる他はない。私に与えられたすべての境遇は、それから比べると、どんな厳しいものであろうと甘すぎた。だからどのような運命でも、すべて受容いたします、と心の中で誓うべきだろう、といつも思うのである。 千鳥が淵もお花見の人で溢れていた。墓苑は五時まで開いていると書いてあるのに、五時五分前でもう入り口の柵は閉ざされていた。遠くからでも祈りは捧げることができるのだから、私は柵の手前で手を合わせた。
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