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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 長い一日  
コラム名: 私日記 第14回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2001/02  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年十一月五日
 デカン高原の真ん中のビジャプールという工業都市の日曜日。
 まずスラムを見る。レンガを積んだ小屋がめちゃくちゃに並んでいる。もちろんガスも水道もトイレもない。汚水が家と家との間に自然の流れを作っている。犬に咬まれた後の傷が化膿している力車のドライバーは予防注射のために六千円払った。その家の月収の半分以上が消えたわけである。近隣の人の視線の中で私たちに金をくれ、と手を出す。
 今回の旅の目的は、私が二十八年間働いている海外邦人宣教者活動援助後援会が二千七百万円の予算で買うことになった学校の建物を見ることである。イエズス会の神父たちが経営する不可触民の子供たちのためだけの学校である。すでに幼稚園二クラス、小学校一クラスが始まっていて、今日はほんとうは日曜日なのだが、子供たちとお母さんたちが数百人、新しい学校で待っていてくれた。
 学校の名前が大きく外壁に掲げられている。「ロヨラ・ヨミウリ・スクール」というのである。私たちのグループが海外協力賞を読売新聞社から受けた際の賞金五百万円が、そこに投入されたので、名前もそれを記念してつけられた。
 インド式の歓迎の行事は、燃える火皿の火による清めと、額に赤い染め粉をつけ、首に花輪をかけてもらうことである。それから子供たちの歌と踊り。行事は延々続くので、途中で席を立つ許しを得て、我々が買った建物を見る。
 本来は、油椰子の製油工場であった。信じがたい広さで、中でも一番の広間にはバスケットのコートができそうに見える。もっとも日本と違って、教室は土で固めた床に黒板があるだけ。子供たちは家でも土間に坐っているのだから、学校で急に机と椅子など与えられたら、緊張してしまって勉強ができないだろう。ここは一、二メートル掘ると地下水が湧く土地なので、トイレの建物は盛り土をしなければならないとのこと。
 午後、職業学校を訪ねる。高利貸しから年利一〇〇〇パーセントというような高利で金を借りた貧しい農民が、借金を返せずにいると、貸主から一種の「農奴」的な契約労働を強いられる。金を借りた当人だけでなく、息子まで数年から十数年の労働に従事させ、その間生きて行くのに必要な最低限の食べ物を買う分しか払わない。そのようにして十二歳から十六歳くらいの少年がムンバイなどで働かせられていた。そのような子供たちを連れ帰って、鍛冶屋や木工の技術を教えている。
 少年たちには表情がないが、日本財団のマーク入りのバスケットボールを贈ったら急に生き生きしてきた。早速少年たちと、日本側の新聞記者、編集者、東京都教育委員会の関係者などによるオール・ニッポンの試合。果たしてオール・ニッポンは負けたのだが、観戦していた三浦朱門によると、「惰弱な編集関係者たちの集まりにしては、意外なほどの健闘」だったよし。
 その間、ロッシ神父と厚生省の前田光哉ドクターと私は、隣にあるハンセン病の元患者の施設に行く。指のない人がほとんど。視力障害、顔面の傷も痛々しい。大木の下で、毎日毎日何もすることがないのだ。これだけの欠損があると、働きたくても働けない。広大な敷地は羨ましいが、神父はせめてここに一台テレビを入れてやりたいと言う。ここの住人の誰一人としてテレビを持っている人がいないのだ。
 夕方、五時、神父たちもあぐらをかいて坐るミサに全員で出席。猛烈な蚊が入ってきたが、ミサはどことなくラビンドラナート・タゴールの世界。
 
十一月六日
 朝六時半、ビジャプール発。十二時間以上かかってバンガロール帰着。タジ・レシデンシー・ホテルヘ入る。
 
十一月七日
 朝、バスで一時間ほど離れたアネカル村へ。フランキー神父はまだ若い人だが、ここでも不可触民のための教育を進めている。まず男子生徒のための寄宿塾を始めた。一番遠い村としては六十キロ以上離れたところから生徒が来ている。まだ始めて間もないというのに、もう立派な英語を話す。
 彼らの父兄の村を訪ねた。道の反対側には立派な家があって、そちら側は上級力ーストの村である。彼らは道を隔てたダーリットとは行き来もしないのだという。一軒の家に迎えられてまず友人になる歓迎の儀式。お盆の上に灯した火皿を置き、一つには香料、一つにはバナナ、一つにはビスケットが置いてある。それらをもらって食べるのが儀式である。他の上級カーストの人はダーリットとは決して食事をしないから、これで私たちは受け入れられたのである。その家の奥さんは高価なココナツのジュースまでごちそうしてくれた。
 午後は二十五のダーリットの村から、着飾った婦人たち五百人が集まって林の中に腰を下ろし、歓迎の踊りや歌を聞かせてくれた。最後にランバーニと呼ばれるロマの婦人たちが、金きらの衣装で現れて農民の踊りを見せた。
 真夜中近く、三浦朱門が一足先に帰国のためシンガポールヘ向かう。
 
十一月八日
 チェンナイ(マドラス)へ。
 海上保安庁の巡視船「しきしま」が、今日チェンナイに入港した。最近跋扈している海賊対策のためインドの沿岸警備隊と合同演習を行い、マレーシアのクアラルンプールで海賊対策会議を開催するというが、日本で海賊対策の民間情報センターの役目をしている日本財団がその会議の開催費用の一部を支援した。対外的に、日本では官民一致して対策に当たっています、ということを示すために今夜のレセプションのご招待を受けることにする。
 午後、インド側の沿岸警備艇「ヴァルナ号」を訪問。船長はシークの方でターバンを頭に巻いておられる。「しきしま」は六千五百トンなのに対して、こちらはその半分くらいの大きさ。しかも古い。
 インド側の幹部たちと海賊対応の話。インドでは警告して止まらない船があったら、すぐ威嚇のために機関砲を撃つ。日本はあんないい装備を持っていて、使わないのは「恥だ(イッツ・ア・シェーム)」と言う。「使わないなら、木の機関砲を載せれば」といたずらっぽく笑う。
 七時からの「しきしま」のレセプションでは、日本風のごちそうを前に、私にこの材料は何か、と皆が聞いてくる。豚と牛が使われているかどうかを恐れているのである。食材の表示なしというのは、宗教に無関心な日本人らしい。
 
十一月九日
 チェンナイを朝早く発って、デリー経由バラナシ(ベナレス)へ。デリー空港で果たしてさんざん待たされ、食堂で幾皿もサモサ(インド風揚げギョウザ)など、安い軽食を摂ってビールを飲む。
 夕刻、ベナレス空港で案内のために来てくださっていたロッシ神父と大内達也氏に会う。大内氏は、バラナシ・フリークとでもいう生活を送ったことのある人。翌日の打ち合わせをして、疲れ切って眠った。
 
十一月十日
 午前中、力車に分乗してガンジスの河べりまで行き、そこからチャーターしておいた船に乗る。次から次へと現れるガート(沐浴のために川に下りる階段)を見ながら、船内で湯を沸かして私がシンガポールから持参したカップ・ヌードルを食べる。
 やがてかつて大内氏が泊まっていたというゲスト・ハウスに到達した。日本人の若い漂泊民が、今でも何人も泊まっている。大内氏が今回確保した部屋は一泊五百円。清潔でインド式のトイレと、水浴用の蛇口もある浴室のついた立派なもの。日本人の若者たちも十数人いる。大部屋を覗かせてもらうと、男女入れ込みでベッドは十幾つ並んでおり、昼間から寝ている人も数人いる。こちらは一泊百円だというから、日本で少しアルバイトをすれば、毎日、時間の経過を感じさせないガンジスを荘然と眺めながら、一年でも二年でも暮らすことが可能なのだ。
 しかしロッシ神父は「彼らは少しも幸福そうに見えない。人は自分がしたいことをすれば自由なのではない。するべきことをする時が自由なのだ」と静かに言う。
 日本人の若者に残っていたカップ・ヌードルをあげ、再び船に帰る。火葬場のガートに近づくと、ガイドが「写真は撮らないでください」と言った。
 今燃やしているのは、一体だけ。薪を積み上げて火葬が始まる直前の一体が別にある。遺体は、花や金きらの布にくるまれて到着する。後に薪を担いだ親族や友人が続く。薪を買うということは、木の少ないインドでは賛沢なことだ。金持ちは二万ルピー(五万円)もの薪を使う。しかし貧乏な人は薪代も二千五百円くらい。五百円もかからない電気で火葬する手もあるという。妊婦、子供、蛇に咬まれた人、身障者、坊さんは火葬しない。
 上陸した後で、小さな子供の白布にくるまれたテルテル坊主のような遺体を見た。付き添っているのは二人の男だけ。破傷風で死んだのだという。
 
十一月十一日〜十二日
 夕方バラナシを出て、デリーに到着。深夜シンガポール航空が時間通りに出た。すぐ眠る。朝のシンガポールで日本航空に乗り換え、夕方成田着。
 
十一月十三日
 今日から出勤。千葉県柏市で講演。
 
十一月十四日
 九時、日本財団で執行理事会。十時から総理官邸で教育改革国民会議。一時半から司法制度改革審議会。
 
十一月十五日
 朝、パレスホテルで、経済広報センターの方たちに講演。十七日夜八時からフジモリ・ペルー大統領との会食が入りました、と財団が知らせてきた。
 
十一月十六日
 九時、財団へ出勤。各部から平成十三年度予算の基本方針説明。
 帰りに文藝春秋に立ち寄って、最近出版された『陸影を見ず』にサイン。この本の中にチェンナイで会った巡視船「しきしま」も登場する。
  
十一月十七日
 午前中、ホテル・ニューオータニで二十三日から行われる日仏対話フォーラムの打ち合わせ会。十二時から聖心女子大学の同窓会。
 二時半、前田建設・前田又兵衛氏。
 五時、行天良雄氏との対談。
 六時、この九月、南米に行った人たちとの「反省会」が財団の十階であったが、七時半まで出て、フジモリ大統領との会食のため止むなく中座。いつも大統領とは、てんぷらとかしゃぶしゃぶとか庶民的な食事をごいっしょするのだが、今日は急なので、どうしても部屋が取れず、止むなく一部屋を借りて日本料理の会席を差し上げる。大統領の他は、アリトミ駐日大使夫妻とその令息。少し田舎にいらしては、という話。笹川陽平理事長、「私は山派で富士山の麓に別荘がありますが、会長(私のこと)は海派で、三浦半島に家を持って……」つまり、どちらへでもおいでくださったらとのこと。
 今回はお付きの武官の姿はなし。少し異様。
 
十一月十八日〜二十日
 旅行以来、やっと休みを取った。
 三戸浜の庭で蜜柑を食べる。
 
十一月二十一日
 十二時頃、産経新聞の新しい社屋の完成をお祝いに行く。清原社長の社長室を見せて頂く。私のいる会長室より少し立派な「子だくさんの家の食堂のテーブル」みたいな会議用の卓があるので嬉しくなる。社長室が小さく慎ましい間は社運は安泰だろう。
 今朝、フジモリ大統領辞任を新聞で知ったので、アリトミ大使に電話で、急にお住まいがご必要でしたら「東京の自宅の庭にもプレハブの別棟がありますから」とお伝えする。
 午後、アリトミ大使から、夕食に来ませんか、と伝言が残されていた。先日の会食のお返しのお招きと思い、笹川理事長がカンボジアに出張中なので、一人で伺うことにする。
 午後からは、新しく社屋になる建物の内装工事のための安全祈願祭。ようやく柏手をうつ順序を間違えなくなった。
 午後六時半から、臨時教育審議会時代に第二部会でいっしょに働いた方たちと「同窓会」でゆっくりしたかったのだが、途中で失礼してホテル・ニューオータニにフジモリ大統領を訪問。お鮨を頂いている間に、「あなたの家に行ってもいいですか?」と言われる。「大統領のプレシデンシィが失効なさるのは、いつでいらっしゃいますか?」と聞いた。アリトミ大使が「あと二時間十分後です」と言われた。つまり二十二日の午前零時ということである。一私人になられた後なら、「どうぞ」と申しあげた。しかしどうしてこのマスコミの包囲網を抜けられるのかわからない。
 SPの部屋に行き、事情を聞いてもらうように頼む。私一人がこんなことを言っても狂気と思われるだけだと思い、SPと大統領のお部屋に引き返した。SPは大統領が辞められたということは何で確認するか、と言う。アリトミ大使が「テレビが言うでしょう」と答えられたが、テレビを信用することはできない、と言う。まことにもっともなことだ。ペルー政府から、外務省に提出する書類の写しを出す、と大統領は言われた。私はアリトミ大使夫人が実妹でいらっしゃるので「明日とにかく奥さまが家をごらんになって、この程度で生活できる、とお思いでしたら明後日にでもお移りくださったらいかがでしょう」と言ったのだが、大統領は「明日行きます」と言われる。脱出の手順は聞かず、「それなら午後四時以降なら、お待ち申しあげます」と答えて辞去した。
 
十一月二十二日
 朝九時に家を出て、ホテル・ニューオータニヘ。今日はここで、社会の片隅で長年人のために尽くした方たち二十四人に、日本財団賞と賞金百万円をお贈りする表彰式が行われる。その中には、航空自衛隊の訓練中事故が発生したのに、事故機が民家に落ちるのを避けるために脱出の時機を失し、殉職された中川尋史氏と門屋義廣氏も含まれる。また海賊に乗っ取られた「アロンドラ・レインボー号」の乗組員十七名(うち船長と機関長は日本人、他はフィリピン人)が救命筏で漂流中、救助してくれたタイの漁船「ヨッド・ドゥアンポーン3号」のチャオーン・チャルーンポン船長も表彰した。私も紋付き、航空自衛隊、海上保安庁、船長協会のメンバーもすべて制服で迎える。
 十時半過ぎ、常陸宮同妃両殿下をホテルの玄関でお迎えする。妃殿下は式の後、お帰りになる前に、航空自衛隊で殉職したお二人の夫人たちに、立ち止まって親しくお声をかけられた。
 懇親会の時パリ在住の写真家、熊瀬川紀氏に会った。「数十年にわたっていいことをしてきた方に百万円差し上げるのは当然です。ボクみたいに数十年にわたって悪いことをしてきた人間は」と言うから「そちらも表彰して、百万円ずつ出させるのはどうでしょう」と言っておいた。
 一時半過ぎに会場を出て帰宅。慌てて別棟の点検をして、とにかく今日から何とか暮らされるようにする。
 四時過ぎ、フジモリ氏は到着。報道官というペルーの方もいっしょ。ただし英語も日本語も話されない詩人。家中人でいっぱいになった。外務省、警察。別棟では夜遅くまで連絡会議。「六法全書をお持ちですか?」と言われる。探し出すのに一苦労。やっと八時過ぎ、さんまとおでんで夕食をごいっしょした。報道官も全部上がって日本食は好きだと言われるのでほっとした。
 
十一月二十三日
 午前八時、玄関のベルが鳴って、日経新聞の記者が「フジモリ大統領はおられますか?」と聞いたので「はい、いらっしゃいます。ただし今はお会いにならないでしょう。週末は休む、と言っておられます」と答える。フジモリ氏は逃げ隠れはしない、と言われ、私も嘘をつく必要がない。
 夕方からホテル・ニューオータニで、日仏対話フォーラムのワーキング・ディナー。
 
十一月二十四日
 午前九時から日仏対話フォーラム。司会は中曽根元総理がなさる。途中フジモリ氏のことで外務省と何度か連絡。夕食会は失礼して帰る。
 夜、日本財団から連絡。フジモリ問題をどうするつもりか、と言う。「どうもしません。どうにもなることでもありません。その場その場で対処します。月曜日にそのことで記者会見をします」と答える。「月曜まで保たないでしょう」と言うので、「もうとっくに保っていません、日経は来訪し、読売は張っています」と答えた。
 
十一月二十五日
 今日からフジモリ氏は、海辺の私の家に来られると言う。うちの車二台、ただし一台は先行。一台にフジモリ氏とアリトミ氏とSP。秘書の車も動員してアリトミ夫人と私が乗り、「途中のマーケットで食料を買って行きます」と言うと、フジモリ氏は「私も行きます」と言う。ご希望をかなえてマーケットに入ると、何人かが「あれ、フジモリさんじゃないの?」と気がついたが、それでどうということはない。太巻きのお鮨、イカのリング揚げ、鶏のから揚げなどを籠にお入れになった。
 午後三時ころになって急に新聞記者に会うから連絡してほしい、と言われる。氏ご自身か大使館に知人のある社から言われる通り連絡した。その後で、私の知人のいる社にも通達した。するとどちらにも知人のいない一社が残った。この分では完全に「特落ち」になる。私がうろうろ考えているとフジモリ氏が、「そこにも連絡したらどうですか」と言われて私はほっとした。優しさというものはいつでもいいものだ。
 週末なので、担当の記者がどこにいるかで到着時間が決まる。一社三十分と予定されたが、私は全くその場には出なかった。終って午後八時からようやく食事を摂られた。しかしその途中で再びフジモリ氏の気は変わった。
 明日は全テレビ局に会う、と言われる。これから連絡をとってください、ということであった。氏はどこの局から掛けるかまできちんと順序を指定された。
 私は各局にほぼ同じ言葉を繰り返した。「私は曽野綾子と申しますが、フジモリ前ペルー大統領が、お宅の局のインタヴューを受けるとおっしゃっておられますので……」
 8チャンネルの交換は私を狂人とみて繋がなかった。12チャンネルは十分に疑って不快感を言葉に滲ませた。「あんたは大統領とどういう関係ですか」。どういう関係でもないのだがなあ、と思う。すべての連絡が終ったのは十一時頃。私は自分のことでもこんなに働いたことは生涯になかった。
 



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