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時々日本語として、古い言葉を思い出すものだ。 今回フジモリ氏は、最初から「逃げ隠れするつもりはない」と言っておられた。スーパーや、水産会社の売り場や、日曜日に釣りを楽しむ人々の傍をゆっくりと見て歩いた時、「あら、フジモリさんじゃないの?」とめざとく見つける人もいたが、だからと言ってべつにどうということもない。人気タレントだったら、人はもっと激しく近寄って行って、サインをねだったりするだろう。 私はフジモリ氏をかくまった覚えはない。なぜなら私は一度もマスコミに「フジモリ氏はうちにはおられません」とは言わなかったからである。最初のうちは誰にも聞かれなかったから、黙っていただけのことだ。最初に私のうちの玄関に現れて、「こちらにフジモリ大統領はおられますか?」と聞いたのは、日経新聞社の記者だったが、その人に私は「はい、いらっしゃいます」と答えた。隠す必然はどこにもなかった。 しかしそれは週末近くだった。フジモリ氏は、週末を海の傍の私の家で過ごすことを望んでおられた。それも人に会わずに静かに…… 当然のことだろう。あれだけの激変の数日後なのだから、疲れてもおられただろうし、今後のことで決意することもたくさんおありだっただろう。フジモリ氏は決して自分の意志を曲げない方のように見受けられた。だから週末をメディアの誰にも会わない、と決められたら、その通りにされることは間違いなかった。 その間、しかし幾人かの私と親しい記者たち、人間的な惻隠の情でこの事件と関わってくれた記者たちは、フジモリ氏の所在を知りつつその安息を守ってくれた。私はそれをまた「武士の情」と感じたのである。今どきの若い人に、武士の情などと言っても何のことかわからないだろうが、日本語としてはそれ以外の言葉が思い当たらない。フジモリ氏は「侍」ではなかったというような悪口も出たそうだが、それもまた古い言葉である。 結果的に、フジモリ氏もまた心ある人々に応えたというべきだろう。土曜日の午後になって突然、すべての全国紙の記者に会う、と決めた時も、最初に来た日経から声をかけるように、と配慮された。 もっとも到着順は、必ずしもその通りにはならなかった。担当記者が、その時どこにいたかで、到着の時間が違ったのである。一番早く私の家にたどり着いたのは産経新聞社であった。人生には運が大きく作用する、ということを示している。その夜、私の家では二つの新聞社の記者たちが居残って原稿を書いていた。朝刊に間に合わせるなら、時間が切迫していることがわかっていたから、私が場所を提供したのである。 私も四十六年間、小説を書いて来た。締め切りの厳しさを一番よく理解できる部外者は私かもしれなかった。だから私はついメディア側の気持ちを察してしまったのである。
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