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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 部族虐殺(中)  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1998/01/07  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1998/02  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   自分がその危険や被害を一切受ける心配のない地点で、人生で生死の境目に会ったような人の厳しい体験を聞く、ということが、一種の快楽になり得るという残酷さを指摘すると、現代の人道主義者は皆怒るであろう。しかし、テレビでも警察の実録ものはいつでも受けて一定の視聴率を保つようである。その理由は、人間の本性の中に組みこまれたどうにもならない利己主義、他人の痛みはさして痛くないという、本能のようなものの結果かと思われる。つまり不運に見舞われたのが自分でなくてよかった、という思いは、実に純粋な喜びに変わるということなのである。
 ルワンダの悲劇を、もう少し細部にわたって伝えようとすると、私はこの人間の浅ましさとどうしても係わることになるが、人間がどれほど、どのような理由で、残酷になり得るか。他人を犠牲にしてでも、自分を生かすことがどれほどの大きな目的となり得るかを、証言から学ばなければならないであろう。
 悲劇は一九九四年四月六日から七月四日までの約百日間に起きた。その間に百万人以上の人々が殺されたのである。
「アフリカの真相」社発行の、『ルワンダ そんなにイノセントではない 女性が殺人者になる時』によると、ツチ族の人たちが逃げ込み、追い込まれたのは、カトリック教会だけではなかった。彼らは主に、地方の役人たちによって、スタディアム、モスク、病院、学校、官公署、或いはただの平地に集められた。そしてこれらのツチ族に対する攻撃は、あらゆる武装した地方公務員、農民、知識人たちの手で繰り返し行われたのである。
 最初のうちは、フツ族の中にはこの「避難所」か「収容所」にいっしょに逃げ込んだのもいた。フツとツチは通婚もしていたし、職業的な区別もなかったから、彼らが社会の危機や変化に遭遇する時、行動を共にすることは極めて自然であった。しかし政治的に彼らの結束や一致をうち砕くために、殺戮が始まる前に、フツ族の人たちは選別され、立ち去るように命じられたというから、その後の運命を正確に予測することは誰にもできなかったにせよ、一家一族が離れ離れになり、後に裏切ることになる悲劇の予兆は既にその時に始まっていたのである。
 別の場所ではフツとツチは共同で地方防御委員会を作って抵抗した。しかしこの団結を破るために、フツはツチを見捨てるように奨励されるか強制された。またツチの抵抗は「銃撃対投石」の戦いによって無残に破れた。ルワンダ軍と大統領警備隊を助けて、警察軍、訓練された予備役の民兵、「発展のための民族革命運動」(MRDA)の民兵たちが動員された。彼らは近代的な武器を持っていたから、戦いの結果は明白だった。石を投げるだけのツチは手も足も出なかったのである。この大規模な殺戮は、ただ民間の憎悪や、それを煽動するものの空気によって引き起こされたのではない、という。攻撃は、兵士と警察軍の、いわば戦いのプロたちによってしかけられ実行された。催涙弾で、人々はばらばらになり、よろよろになって逃れ出たところを、外で待っていた民間のフツ族たちに殺される、という図式である、殺戮者たちは、攻撃からやっと脱出したツチ族たちを、今度は、山刀や、土地ではマスと呼ばれる先端に爪の付いた根棒や、剣や、先端を尖らせた竹の棒や、槍などで個別に殺した。生きながら焼かれた人も、生きているか死んでいるかを問わず、便壼や川の中に投棄された人もいた。山刀で切り殺されることを恐れた人々は川へ飛び込んで溺れた。
 怪我をした人々にも容赦はなかった。幸運な怪我人が病院に収容されたとしても、すぐに病院のベッドから引きずり出され、病院の敷地内で射殺された。赤十字の救急車から下ろされた人たちは、道端で始末された。夫は妻を殺すように仕向けられ、母は息子を殺せと強いられた。頭に銃を突きつけられた兄弟はお互いの死刑執行人になった。
 森の中に隠れた人たちは、同じ市民の獰猛な猟犬に狩り出され、噛み殺された。こうした隠れた生活の間、彼らは草を食べ、露を飲んで生きていた。穴や天井に隠れ、マラリア蚊の涌く湿地帯を彷徨い、凍えるような岡の上や、ルワンダ南部と西部の雨の降り続ける森に潜んだ人々も、生存ぎりぎりの線までの栄養失調に陥っていた。弾や手榴弾や山刀で傷を負った人々も放置されたままだった。人々は家族とも村の人ともばらばらに離され、その多くは再びこの世で会うことがなかった。
 一九九四年四月十五日、キブイエのニヤンゲ教区の教会では、二千人がカタピラー社製のブルドーザーで轢き殺された。
 同日ギコンゴロのキベホ教区では、七千人の人々が教会やその周囲の建物の中に集まっていた。そして彼らは銃撃で倒され、手榴弾で吹き飛ばされたが、彼らの殺戮の先頭に立ったのは、教会の司祭、タデー・ルシンギザンデクウエ神父であった。
 実にあらゆる職業人、あらゆる立場の人が、平気で殺戮に参加したのである。
 三十七歳の石工のセカンド・トワギルムキザの証言には次のような箇所がある。
「私は、教会のドアのところにいました。そしてタデー・ルシンギザンデクウエ神父がキベホから来たアナスタス・ヒキズィマナという兵隊と入って来るのを見ました。彼はインパランパを踊る人のように、バナナの葉で体中を覆っていました。神父の背中で、鎖をつけた銃が揺れていました。そして彼らは、中にいた人々を撃ち始めたのです。夕方六時から六時半くらいにあたりが暗くなると、彼らは撃つのを止めました。私はできるだけ死体の下深くを這って脱出しました。
 教区のピエール・ンゴガ神父も虐殺の中で生き残った一人でした。その夜、九時半頃、司祭館に生き残った人がどれだけいるか見に行きました。神父はそこで、動けるものはどこへでも散らばって逃げた方がいいと言ったのです。
 三人の子供たちがいましたので(その子供たちが、セカンド自身の子供たちであるかどうかは不明)私は彼らと出発しました。しかし途中で、伏兵がいることがわかったので、私たちはまたキベホに戻らなければなりませんでした。
 しかし教区では再び銃撃が始まっていました。夜も遅かったので、私は自分が作るのを手伝った便壼の中に隠れたのです。私は内部の構造がわかっていたので、鉄の格子の上に立っていたのです。
 朝方、私は人声を聞きました。他の生き残りかと思って覗いて見ると、バナナの葉を着た人たちだけでした。そこで私は、また中に潜りました。
 朝方五時頃、車両の来る音がしました。誰かが命令をしているのが聞こえました。『全部のドアを見張れ!』次の瞬間、私は子供たちの激しい泣き声を聞きました。『教会の中に追い帰せ!』
 それから突然教会は火に包まれたのです。
『熱いよう!』という子供の叫びが、大きくなりました。しかし火が廻ると、その声は沈黙しました。それから、襲撃した人たちは立ち去りました」
 このキベホ教区の殺戮で、セカンドは彼の直接の家族二十一人を失った。その中には彼の三歳の娘も含まれていたし、彼の兄のイグナス・カユンバとその妻の間の九人の子供たちも含まれていた。惨劇の教会から逃げ出した人々は、セカンドのような幸運な人を除いては、ほとんどが山刀やマスで殺され、死体の山に隠れていた人たちも、結果的には焼かれて殺されたのであった。
 教会を利用して、教会に集まった人たちをどのようにして殺戮したかは、カシアン・ガハマーニという農民の証言によく出ている。彼はギコンゴロのムブンガ村の出身であったが、ブターレのニアキズ村まで、どこかに安全な場所はないかと一縷の望みをかけて逃れて来たのであった。そこで彼は数千人の避難民で溢れているシアヒンダの教会に辿り着いた。
「私たちがそこに着くと、村長は、私たちがどうして逃げて来たかわからない、と言いました。襲撃を受けて来たことはあっても、それは政治的な理由ではないのだから、私たちは自分の村へ帰るべきだ。ニアキズ村としても、我々がそこへ留まることを許すわけにはいかない、と言ったのです。しかし教区の司祭は、我々は襲撃されることは間違いないのだから、村に帰って来てはいけない、と言ったのです」
 人々は残酷な選択をすることを強いられている。命のかかった判断であった。
「村長は二十分の間に、教会を出て行くように言いました。二十分間に出ていかなかったら撃つ、と脅かしたのです。人々はパニックに陥りました。数百人の人々が、逃げ出そうとしました。しかし町の中には、MRDAの民兵が彼らを待ち伏せしていたのです。そこで八百人が一挙に射殺されました。
 その直後に、警察軍が教会の周辺を攻撃しました。MRDAの民兵がその後ろに控えていて、逃げ出そうとする人々を山刀で切り殺しました。避難民たちは石を投げて抗戦しました。警察軍は七、八人でしたが、MRDAの民兵が殺すのを黙って見ていました。
 人々はどんどん死んで行きました。死体の山で通れなかったほどです。死体はどこにでも転がっていました。手足や頭のもぎれたもの、吹き飛ばされて粉々になったのもありました。避難民たちが応戦して殺した警察軍の兵士はたった三人だけです」
 そこで二万人が殺されたという。彼らはすべてツチ族であった。
 どうしてツチ族だということがわかったかというと、それはIDカードによるか、ツチ族的な容貌をしていたかだという。また日本の村と同じように、地方の村落では、誰がどこの部族の出で、どこの女性、或いは男性と結婚したか、などということは、調べれば極めて容易に洗い出せることであった。だから贋のIDカードがあっても、それでごまかしおおせることは非常に難しい場合が多かったようである。
 殺戮の中に、女性が多くの場合、強力な役割をかっていたことがいくつもの証言で明らかになっている。
 ベルナデッタ・ムカルラングワは少なくとも五年間は議員を勤めていたが、前身はヌドラ村ヌトボ小学校の先生で、夫は国立大学のルエンゲリ分校の講師であった。
 セレステイン・ヌザボナンキラはフツ族で三十三歳、六人の子持ちでベルナデッタとも昔からの知り合いであった。カブエの岡で行われた二万五千人に対する虐殺の証言を、彼女は次のように行っている。
「ベルナデッタとは同じフツ族としてほんとうはしたくないことなのですが、殺されたツチ族たちも私たちの隣人でした。ですから他に方法がないので、この恐ろしい事件の証人になります。
 ベルナデッタは『山刀を取れ。ツチを殺せ。一人も逃すな』と叫んだのです。それから、フツの男性と結婚したツチの女性も見逃すな、と命じたのです。
 殺戮が始まってから、ベルナデッタは自分の家でプリムス・ビールを売り、殺したツチから奪ったものを分ける作業をしました。何人かのMRDAの民兵は、ツチの娘たちを拉致してレイプしたのです。そしてツチの子供たちは、強制された叔父や祖父の手で殺されたのです」
 モニク・ムカルタナバは三十五歳。大学の公衆衛生センターで助手として働くジャン・ボスコ・セブリココの妻であった。二人の間には五人の子供がいた。
「四月二十二日に夫は留守でした。職場はブターレにあったのです。ベルナデッタの指揮する一隊が私の家に入って来て、略奪し、破壊し、放火しました。
 始めの数日は、男たちだけが殺戮の標的だったのです。それで、私は自分の実家に子供たちを連れて帰りました。父はフイエから来た人で、以前から用意よくIDカードを偽造して(つまりフツになりすまして)いましたし、私の弟はルワンダ軍にいて副官を勤めていたので、私は安心して、息子だけを用心のために隠し、娘たちは普通に暮らさせていました」
 モニクの甥は洗礼の時、ベルナデッタに代母と呼ばれる霊的な母親になってもらっていた。しかしそんな関係も、ベルナデッタに霊的な子供の一族に対する殺戮を思い留まらせることにはならなかった。
「数日後に、ベルナデッタは、夫ボスコの子供たちは、皆殺す、と言ったのです。MRDAの民兵は私の三人の娘たち??カイギルワは小学校四年生、カンテングワは三年生、ウワマリアは一年生??を三人とも連れて行って殺したのです。男の子は一番年長でしたが、幸運にも隠れていて見つかりませんでした」
 こうしてモニクは三人の子供たちと夫を失ったのである。
 略奪者たちは、金を出せば見逃すということもあった。それはもちろん金を出すのを渋る人を殺したということでもあり、金を出しても殺すという場合もあった。
 もう一人ママン・アリーネの殺人の現場の状況の証言がそれを物語っている。
 ママンはキガリで美容院をやっていた三十四歳の女性で四人の子供がいた。MRDAのメンバーとして、彼女はルゲンゲ地方の議員であるオデット・ニラバゲンズィとも親しかった。
 一方スペシオース・カラゼキは、六人の子持ちの裕福なビジネス・ウーマンだった。
 或る日MRDAがスペシオースをママンとオデットの二人の女闘士の前に連れて来た。ママンはスペシオースを殺すことを命令したが、MRDAたちは既にスペシオースから賄賂の金を受け取っていたので、殺すことをためらっていた。
 そこにギソズィの難民キャンプにいた女性がいて、先の尖った棒を持っていた。ママンとオデットはスペシオースの脚を開かせ、ママンがその棒でスペシオースの膣を突き通した。別にそこにいた女がスペシオースの頭をマスで打った。ママンは臈纈染めの服を着て、手榴弾を腰につけていたが、スぺシオースの衣服をはぎ取って着た。
 難民キャンプにいた女性というのはハビャリマナ政権政府とルワンダ愛国戦線との戦いによって難民になった人たちである。そしてそのような難民キャンプにいた人たちもまた、その時期、おそろしい殺戮に積極的に加わっていた。
(この項続く)
 



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