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一九九七年四月一日 エイプリル・フールなどと遊んでいられないことがわかった。朝、日本財団で辞令交付。たった百一人の職員しかいない財団でも、配置換えで上を下への小騒動である。 人は不得手な部署にも移らねばならない。そうしないと、組織が硬直する。そして人は不得手だと思う場所で、意外な才能を発揮することもあるのである。 十時、執行理事会。午後一時から東商ホールで講演をして、三時からこの古い財団の建物を移転するための建設委員会。その途中にニューヨークのジャパン・ソサエティーの会長がお見えになる。同じ桜がワシントンの方が色も鮮やかになるのは、どうしてだろう、伸び伸びと植えられているからだろうか、という話をする。 四月二日 午後から平成九年度補助金交付決定通知会をホテル海洋で行う。会場を決める前に、財団の大番頭と呼びたいような生え抜きの理事の一人がわざわざ私の部屋まで、 「会場決定に当たりましては、見積もりを二つのホテルにさせたのですが、東京プリンスホテルの方は期日までに返答がありませんでしたので、ホテル海洋にさせることになりました」 と律儀に報告をしに来た。ホテル海洋は、日本財団の系列の財団が修学旅行の生徒を優先して泊めるためにやっているホテルなのだから、その経営を支えるために、うらの行事には率先して使って当たり前だ、などと私は安易に思っていたのだが、ホテル海洋のサービスと価格を牽制するためにも、こうして毎回よそにも当たってみているらしい。たえず競争の原理が生かされていて、しかも緊張があるのはいいことだ。 三時三十分から記者会見。 まず笹川陽平理事長から。平成九年度の予算の方針を述べてもらい、その後、各担当理事から主な仕事の具体的な説明。 ほんとうのことを言うと、私は整然と正しくものごとを述べることが恐ろしく下手なので、できるだけ狡くその機会を避けているのである。前回の記者会見の時にも、ウィーンの音楽大学に百万ドルの奨学資金を設定していることについて、「百万円」と言ってしまって、理事長から小声で「百万ドル」と注意されたのである。 私の頭の中では金額は間違っていない。しかし私の口と手はバカだから、いつも使い馴れている単位を喋ったり書いたりしたがるのである。 「どういうふうに補助金交付を決めるのですか」と聞かれたら、何て答えようかなあ、と考えているうちにおかしなことを思い出してしまった。 この間、うちの財団は現職の大蔵大臣のお頼みも断ったのである。別に隠すことではない。三塚大蔵大臣が、ご自分が会長をされている日中青少年旅行財団に千三百六十万円出してくれないか、とおっしゃったのだ。子供たちに隣国のことを知らせたいというお気持ちはよくわかるが、うちの財団は一九八七年から九八年までに笹川医療奨学金制度を設けて、中国から中竪のドクターたちを勉強させるのに三十九億三千万円を使った、その医学留学生たちは今年度でちょうど千人に達する。 彼らは平均三十四蔵。必死で日本語の集中訓練を受け、妻子をおいて一年間、日本中の大学や病院に散らばって高度の技術を学び、百パーセント近く中国へ帰って人々に尽くしている。年間一人三百万円かかる事業だが、双方共に堅い決意の上だ。友好的旅行の範囲をはるかに超える仕事を既にしているのである。 それでお断りした。大臣もちっともそんなことを悪意に思っておられない。笹川平和財団の十周年のお祝いの会では、にこにこして私の挨拶を受けてくださった。 そんなようにして、どの申請を受けるか受けないかは、誰から見ても自然に公平に決まるものだ。 四月三日 ここのところ左目の中で、蚊が飛ぶ。眼科の診察を受けたら、網膜剥離や眼底出血の徴候もなく、寝不足で目の中の垢が出るのだとのこと。 「時差ボケが取れないので睡眠薬を頂けますか」と言うと眼科では出せないのだ、という。単純に、眠るほどいい目の治療はないのに。 「それでは七日から、六十三人の方々とイタリアとイスラエルに参りますが、砂漠で野営をすると、砂で角膜を傷つけることがよくあります。抗生物質入りの点眼薬を頂けますか」と言うと、それも目が怪我をする前には出せない、のだそうだ。 厚生省というところは、実に国民を守らないところだ。医師にかかりにくい土地へ行くのだから、薬を出してください、と言っているのだ。これで目がだめになったら、私も厚生省を訴えることにしよう。 夜、日動画廊で、石川ヨシ子さんの桜の絵の個展のオープニング。行く途中で皇居お堀端の夜桜も眺める。ヨシ子さんの絵には、昔から静かな妖気がある。妖気か、狂気か、そのどちらでもいい。芸術にその二つはつきものだろう。 家に帰ると、今日畑でアスパラガス五本と、椎茸が二十個ほど採れたという。それだけですっかり気分がいい。
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