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二月初め、ベラルーシに調査に入った時、私は久し振りに旅行用の装備の中から寝袋を出して来た。 登山もトレッキングもしない私が寝袋の味を始めて知ったのは、サハラ砂漠を縦断した時である。砂漠の夜の寒さというものはたかが十度前後なのに、背骨が寒くなるような奇妙な厳しさがあるから、私は寝袋の中にもぐり込む度に、「ああ、温かくてしあわせ」と感じたものであった。 ベラルーシの寒さはマイナス三十度になることもあると聞いていたが、私はそんなに恐れなかった。今は軽くて温かい衣服があるし、装備を整えていけば何ということもない。 オーロラを見にアラスカに行った時もマイナス二十度くらいにはなっていた。素手でドアの金物のノブに触ると、瞬間的に指が凍りつくとかいろいろなことを聞かされていたのだが、ノブに指は凍りつかなかった。ただしオートマティックのカメラは、オーバーの懐にずっと抱いていても、取り出した瞬間に動かなくなった。電池が凍るのだという。 その時のロッジでも寝袋が威力を発揮した。もちろんアラスカ州だから、部屋には暖房の設備もきちんとあるのだが、それでもベッドの足元やドアの付近が何となく寒い。ベッドの上に薄い寝袋を拡げ、その中に携帯用懐炉を一個入れると中は完璧な春の暖かさになる。私は当時夫の両親と暮らしていたので、日本に帰るとすぐ、二人のために災害用の寝袋を買った。何とか雨さえ防げば、これで二人の老人は、何があってもどこででも温かく夜を過ごせる。 ベラルーシでは、今でも放射能があって人を住まわせていない地区がある。屋根は落ち、羽目板の肌は荒れ、ガラスの割れた窓から中を覗くと、掠奪に遇ってめぼしいものは何一つなくなった室内に、ベッドそのものが病んだ人のように残っていた。 その地区の偉い人によると、放射能を防ぐには四十度以上のアルコール分のあるウォッカを飲めばいいのだそうで、こういう冗談をもう十年以上言い続けながら、この土地の人たちはたくましく生き抜いて来たのである。 私が作家だと知った人たちは、この村を一つあげますから、ここにお住みなさい、という。放射能をたっぷり含んだキノコはたくさん生えるし、私は畑が好きだからジャガイモも作れるだろう。狼も増えて、これは近隣の村の脅威になっているらしいけれど、事故後人為的に連れてきたバッファローの群は、期待以上に頭数が増えている、という。 放射能なんて、若い人たちは厳重に防がなければならないものだが、年寄りに限って考えれば、大した恐怖ではない。現に汚染区域内に住んでいる九十二歳と八十五歳の夫婦は私たちにお金をねだって意気軒高である。
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