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サンパウロの空港近くの、貧しい人々の町に住んでいる永山恵神父と久しぶりに再会した。永山神父は一世だが、赤ちゃんの時にブラジルに渡ったので、もう故郷はブラジルである。しかし神父はここ数年、名古屋で、日本に出稼ぎに来ている日系ブラジル人のために、カトリック教会で働いていた。顔容は日本人でも、二世三世は言葉も食事の好みももうブラジル人になり切っている。「異郷」の日本で、ブラジルの言葉で信仰を語り合い、身の上相談を聞いてくれる人が必要なのである。 その神父が、軽い胃潰瘍になってブラジルに帰って来た。質素な服を着ている神父の職業を知らない日本の医師が尋ねた、という。 「この病気はやはりストレスが原因なんです。あなたは今の職業を替わるわけにはいきませんか」 神父は笑って答えた。 「替わるわけにはいかないんです」 神父は一生、カトリックの司祭として生きることを神に誓っているのである。神父は古巣に帰って来た。子供の時から食べ馴れた物を食べてしばらくすると、胃が治って来た、という感じがした、という。 神父の住むグワルリヨスの町は、私が一九九四年に訪ねた時より、ファベイラ(貧しい小屋)そのものもかなり立派になっていた。木片で作った小屋より、千個で約一万一千円という煉瓦で作った家が多くなったのである。もちろん鉄筋や鉄骨は入っていない。ただ煉瓦をセメントで固めただけの手作りである。 ブラジルの現在の最低賃金は月額約九千円だが、もちろんそれで一家五、六人、或いはそれ以上もの家族が暮らして行けるわけはない。どの人に話を聞いても、今は失職中とか、時々仕事を見つけてわずかな収入を得る、と言っている。生き続けるのにやっとなのだ。 永山神父はそのファベイラの人々の中で、本当に困っている百家族に毎月二十五日に一包の食料品を渡していた。人数に関係なく、一家族に一包なのだという。中味は、メリケン粉、砂糖、マンジョウカの粉、豆、米、ケチャップ、ビスケット、子供用の粉ミルク、だという。米は多分五キロ入りの袋である。 「その費用はどこから出ていますか?」 と尋ねると、主に教区の教会と、支援者たちからだが、その他にも毎月第三日曜日に教会に来る人たちが、何でもいいから?米でも豆でも砂糖でも?1キロ持って来ることになっている、という話だった。貧しい町に住む貧しい人たちにも、自分より更に貧しい人に分け与える機会を作る。それは大変に教育的で人間的なことだ。貧しい人にも、時には贈る光栄を味わってもらうのである。食べて行くのも大変な人たちが、米一袋、豆一袋を携えて来て、祭壇の前、神の足元、にそれを置く時、彼らは喜びと、自信と、誇りで満たされる。社会保障制度はあちこちに不満をばら撒くが、自分が贈る立場になると、わずかなものでも喜びに満たされるものなのである。
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