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昔父が、ジンベエと称する衣服を身につけていたことは莫然と覚えているのだが、今、巷で売っているものとは上着の長さも違っていたような気がしてならない。夫は夏になると家ではもっぱら現代のジンベエを愛用している。これでお客を待ち受けるというわけにはいかないが、ベルの音で玄関に呼ばれて出て行っても、まあどうにか許されるというものである。 海岸の家で暮していた時、遊びに来ていた或るアジア人の留学生にこのジンベエを着せたことがあった。夏の夕方のお風呂上りに、又お客が服を着るのが気の毒なので、私はマーケットで買って来ておいたのである。 食後の西瓜を食べ終ってから、私はこの獨特の民俗服に関する微妙な約束ごとを、この日本語の達者な留学生に教えなければならなかった。 「これはお寝巻ではないのよ。ですからお蒲団に入る時は持ってらしたパジャマに着かえて、明日の朝また着るといいわ。帰る時持ってお帰りなさいね」 「朝から着ていいのですか。ボクはこれは夕方に着る服かと思っていました」 「ええ、まあイヴニング・ドレスみたいなとこもありますけどね」 「朝これを着て散歩に行ってもいいですか?」 「ええ、いいですよ」 と私は答えてから急に責任を感じて来た。 「あなたの下宿の近くならいいのよ、駅前のマーケットくらいなら」 「隣の駅にボクの友だちが住んでいるのですが、これを着て行って彼に見せてもいいですか?」 「それはいけません。ジンベエを着る時は靴をはいちゃいけないの。サンダルとか、つっかけとかはいいけど。だからこの恰好で電車には乗れないの」 「駅までならいいですね。では駅前の喫茶店もかまいませんか」 「まあ、コーヒーは飲ませてくれるでしょうけど、他のお客がいたら、ちょっと失礼かも」 「駅前の歯医者さんはどうですか?」 「いけなくはありませんけど、ジンベエを着て出歩くのは、どっちかと言うと定年退職後のおじさん、という感じはあるのよ。だからあなたのような若い人は、Tシャツの方がいいわ」 文化を理解するというのは、これほどに大変なことだ。 最近になって、ジンベエを一応のブランド会社が作るようになった。ロゴマーク入りである。生地もしっかり、縫製も入念で夫は喜んでいた。ズボンは毎日洗うわけには行かないが、これだと毎日着換えてさっぱりしていられると言う。 驚いたことに先日会った知人が着ているのは、パリだかローマだかで有名なオートクチュールの名前入りで、模様も完全に昔のジンベエのものではない。ゼンガクレン、カラオケ、フトンから今度はジンベエが世界に通じる日本文化になるか、という気もするが、この衣服はやはり駅前止りで、決してサミットには採用されないように祈るばかりである。
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