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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: モロカイ(MOLOKAI)島を訪ねる  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/09/29  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  君知るや、「悲惨の国」の物語
 ハワイには百三十二の島があり、大きな島は八つある。うち一つは軍事基地、もうひとつは私有地だから立入禁止である。残る六島のうち五番目に大きい「モロカイ」は、観光客にはなじみが薄い。ワイキキの浜の土産物屋で見たTシャツには、四つの島の地図と名前が印刷されていたが、モロカイ島は省略されていた。
 それも無理からぬことで、かなりの旅行通でも、ホノルルのあるオアフ島、火山と大牧場のあるハワイ島、高見山の出身地でもあるマウイ島、それに新婚旅行に人気のシダの洞窟のカウアイ島、そこまでは知っているが「モロカイ」の名称はなかなか出て来ない。それだけこの島は、大規模な観光開発と団体のツアー客を拒絶する手つかずの秘境なのである。
 故あって、この島に出かけた。島の北岸は東端から西端まで百メート以上もある高い絶壁が直立し、その下で海は深い淵をなしている。だが、たった一カ所、屏風状の崖のはるか下に緑色の台地が舌べろのように太平洋にせり出している。一辺が四キロほどのその三角形の岬が、目的地であった。私の訪問先は、そこに一八六六年に設立されたハンセン病(ライ病)患者の“居留地”である。このあたりの地名はKALAUPAPAという。ハンセン病の最盛期には千人もの患者が島流し同然に隔離されていたが、今では元患者さん四十五人が生活している。
 旧約聖書の時代からあったハンセン病。「神が人類の罪に対する罰として与えられたもの」。それが古い聖書の解釈であり、恥辱の病とされ、もっぱら世間から忌み嫌われ隔離されていた。この病の特効薬が発明されてから五十年。二十一世紀初めには制圧に手が届くところまできている。だから、今日では簡単に治癒する皮膚病のひとつにすぎない。だが、こうした医療的現実と、人々のこの病いを見る目との間にはまだ大きなギャップが存在している。そのことを考えるためにこの島を訪れたのだ。
 ホノルルの空港から三十分、十五人乗りの小型機がこの島に着陸する。一番最初に降りた。二階屋の小さな空港ビルを出る。だが様子がおかしい。目ざす「KALAUPAPA SETTLEMENT」(カラウパパ居留地)の標識も、それらしき迎えの人もいない。何か連絡に手違いがあったのかもしれない。「どうせ小さな島なのだからタクシーで」と思ったのだが、一台のタクシーもない。空港の案内所に飛びこんだら「早く今来た飛行機に走れ!」と言われて驚いた。「KALAUPAPAは、次の空港だ。崖の向こうだから陸路を車では行けないよ」と笑われる。
 こんな小さな島に空港が二つあるとは……。思考の盲点を突かれた形だが、よく考えてみれば世間から遮断するために選定した場所なのだから、陸路がなくても不思議はない。私の降りた空港の名はモロカイで、この町の人々は、最初、KALAUPAPAの存在さえも知らなかったという。見えないものは意識の中には存在しなかったのだ。

ハワイを襲ったハンセン病
 太平洋の白い崖の下を海面すれすれに飛行すること十分、ようやく到着。元患者のクラレンス・ナイアさんの運転する、ドアの壊れたバンで見学に出かける。この人は居留地の住人で、連邦公園局と州政府の委託で、ミニツアーを引き受けている。彼はKALAUPAPA生まれである。両親ともこの島に送られた患者であり、生まれるとすぐハワイ州法によってマウイの祖父母に預けられた。結婚してアラスカに住んだが発病して、この島に戻る。完全に治癒してはいるが、外形で元患者であることはすぐわかる。大部分の元患者はハワイ諸島の生まれた島に戻ったが、彼はあえてこの地を生活の拠点に選んだ。
「差別によって強制的に移住させられたのだから、もし望むならこの地に好きなだけ住んでいてよろしい」。患者の隔離政策を完全に撤廃したハワイ州法にはそう規定されているからだ。
 ツアーの相客は、日本の元患者同盟会長の曽我野さん、韓国の元患者で救ライ運動家・鄭さん、笹川医療保健財団の山口さんらだ。まず墓場に案内される。日本、韓国、中国人の墓も多く見受けられる。太平洋を見下ろす台地に、故国のある西に背を向けた形で、墓石が立っている。風雨にさらされ判読不能の墓碑が多い。新しいのもある。子供や孫たちが、この地を訪れ、墓を作り直したのだという。
 ハワイ諸島にハンセン病をはじめとする伝染病が襲ったのは「電撃的だった」と、この島で求めた『YESTERDAY AT KALAUPAPA』という写真集にはそう書かれている。この本によれば、島々に捕鯨船が寄港する以前の十八世紀末のハワイ人たちは、病原菌に侵されていない純粋無垢の人々だったという。菌に対する抵抗力のない人々に欧州と東洋からさまざまな病原菌が持ち込まれ、あっという間に伝染病が蔓延した。ハンセン病もそのひとつであり、キャプテン・クックがハワイ上陸した一七七八年には三十万の人口だったが、百年後には五万人に激減したという推計さえあるとのことだ。
 この地の東洋人の墓は、当時のハワイ王国の砂糖キビ畑の労働者として移民し、ハンセン病に感染した人たちのもので、無縁仏が多いとも聞かされた。当時のハワイ王国衛生当局のパニック状況は、たいへんなものだったらしい。そのころ、ハンセン病を現地語で「MAI PAKE」。つまり「中国病」と名づけ怖れおののいた。累計で八千人の患者が、この地に強制的に送り込まれた。
 一八六六年一月、患者隔離の第一船の上陸地点に案内される。三方が崖に囲まれ、しかも船の接岸が困難な地形である。砂浜というものが全くない。人々は泳いで岩にとりついたとのことだ。彼らには、当座の食糧と、種子と農機具が渡され、置いてきぼりにされた、とクラレンスさんはいう。深紅のブーゲンビリアや、名も知らぬ紫や黄色の花をつけた樹木が茂っている。彼らは自暴自棄となり、バクチやアルコールに淫し、強者のみが生き残る無法状態のなかで、自給自足の農作業は一向に進まなかったという。
 病院、寄宿舎、薬局、浴場がハワイ政府によって建設されたのは、その何年か後のことだったという。粗末な教会が患者たちの手によって造られた。上陸地点に近いKALAWAOにある教会である。「人類に締め出された十二人の女と二十三人の男たちは、大声で神を求め、悲嘆のなかで、ここに教会を建立す」とあった。

「ダミアン神父」
 この世界最大のハンセン病患者居留地を書くうえで、どうしても触れておかなければならないのは、ベルギー人のカトリックの司祭、ダミアン神父である。彼は一八七三年この地に渡り、八九年、十六年間の布教と救ライ生活ののち、みずからもハンセン病にかかり、凄惨なデスマスクを残し殉職した。『宝島』の著者であるスティーブンソンは、彼の死の直後、この島に渡り隔離地を見学し、「嫌悪すべき悪臭。ぞっとする。ここは言葉で表せない恐怖の場所であり、かつて見たことのない悲惨の国」と評し、そしてダミアン神父を「信仰を同じくする人々の霊的な幸せに貢献した」と称賛した。
 ベルギーの映画会社が、「ダミアン神父伝」を製作すべく、当時の教会、病舎、家畜小屋、手押し車などのセットを造り撮影中だった。「はじめは商業主義を警戒して反発したけど、俺もエキストラで出演したよ。寝た切りの患者の役目さ。一日で五ドルくれたよ」とクラレンスさんがいう。変形した元愚者の姿を商業主義に利用されるのは、耐え難いほどの抵抗感があったのだろう。
「要するに人間の心の、越え難い障壁は視覚上の美醜の問題ですよ。ライがハンセンと名前が変わっても、差別がなくならないのは、うつらないと頭ではわかっていても、外見上、醜いからだ」と、同行の元患者同盟会長の曽我野さんはいう。
 この人も元患者で、瀬戸内海の大島青松園に住んでいる。「強制収容されて死のうと思ったが、ずるずると五十年も蟻地獄のようにひきずり込まれていった。強制隔離されたのはもちろん口惜しい。しかしあのまま家にいたら家族は村八分になっていただろう。国のお世話で今日まで生きてこれたと思うこともある」と。
 モロカイ島の居留地にいる現在の元患者の生活は、決して暗くはない。少なくとも外見上はそう見える。きれいに芝生を刈り込んだ広い庭付きの、日本的標準でいえば、大きい家に住んでいる。村には、コンビニ、ガソリンスタンド、バーと郵便局、病院それに本屋が一つずつある。ライは医学では解決済みである。だがライの恐怖を刷り込まれた世間の見る目は、それほど変わってはいない。それが心の痛みだと曽我野さんもいう。
 翌日、曽我野さんたちと、ホノルルの市政ホールで開かれた「尊厳を求めて」の会合に顔を出してみた。「ハンセン病の患者、回復者は社会の一員として生きたい。私たちは相互に助け合うだけでなく、世の中一般の人々も助けて生きたい」。それがこの運動の趣旨であった。日本がハンセン病患者の隔離を廃止したのは、一九九六年、ハワイに遅れること二十七年である。
 



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