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昔、小パリ、今、地獄 ルーマニアの首都ブカレストを訪れるにあたって、かなりの予備知識を詰め込んだ。モントリオール・オリンピックで驚異の「十点満点」を記録した体操の小さな妖精コマネチ、そして冷戦の崩壊とかとともに、威張り過ぎの廉で人民に処刑された超独裁者チャウシェスク・元大統領??この二つの好感と嫌悪の両極端の事例しか、日本人の記憶にはない。 この国とは、ヨーロッパのなかでも、それほど“遠くて遠い”間柄だからである。 今日のルーマニアについてこれといった日本語の良書も見つからなかったので、もっぱら西欧人の書いた英文をあさった。そのなかには強烈なものもあった。 「ルーマニア旅行は、おっかない話が多い。闇マーケット。街路のペテン師、スリ多し。食い物はまずく、ホテルの支配人は倣慢。一九八九年以降、だいぶよくなったとはいえ、申し訳ないが全部事実。ルーマニアは、東ヨーロッパの西に位置する粗野な国。ブカレストは、昔バルカンの小パリといわれたが、今は、地球上の地獄という人も……」と。 世界的なベストセラーの旅行ガイド、『LONELY PLANET』(地球一人歩き)の「ルーマニア編」の冒頭の文章である。このシリーズは何冊か読んだことがあるが、これほどの酷評をもらった国や都市は他に例を見ない。バルカンを田舎者とみくびったのか、民族的偏見なのか。ともかく西欧人はこの国の首都をよほどお気に召していないらしい。「まあ、話半分程度に聞き流しておこう。ブカレストの街角にも、美しさや、心のぬくもりはあるだろう」。そんな“いじめられっ子びいき”の義侠心にかられてこの都市を訪れたのだが……。 八月のブカレストのオトペニ空港。異常気象のせいか猛暑である。現地のNGO、環境連盟会長、オクタビアン・チボタ氏が迎えてくれた。英語を話す人懐っこい陽気な工学博士である。「ROMANIA」という国名の起源は、口ーマに征服され植民地となった二世紀にさかのぼる。このあとスラブ人やマジャール人がやってくる。十五世紀のコンスタンチノーブル陥落とともにオスマン・トルコに支配される。だからルーマニア人は混血である。彼は先祖がローマ人であることを誇りにしている。 「ローマにオクタビアヌスという皇帝がいた。チボタさんの名前は、それにちなんで……」。そう言いかけたら「そう、それです。普通名詞では八月という意味です」と。ラテン人と見立てたのがよほど嬉しかったらしい。 初対面の心の垣根が一挙にはずれ、相互に親近感がみなぎる。彼の運転するスピードの出ない中古国産車、「DACIA」(ダキア。ローマに征服される以前のこの国の名称)の車窓から眺める、ブカレスト市内に向かう街道の景色は悪くない。プラタナスの並木道はパリに似ている。「ブカレストのシャンゼリゼです」と彼は誇らしげだ。酸性雨のせいか、ところどころ葉が茶色に枯れているのが気になるところだが、一見、小パリ風ではある。 「これが凱旋門です」と彼。第一次大戦で英、仏、露同盟側に参加したおかげで、国土が一挙に二倍になり、それを記念したものだという。パリのそれよりもかなり小ぶりだが、形はそっくりだ。だがブカレストもまんざらではないと思ったのは、ここまでだった。 凱旋門を過ぎると街並みが不ぞろいになり、大型の粗製乱造の建物が目立つ。東京でいえば初期の公団アパートのような粗末なものや、これでも設計やデザインをやったのか、と目を疑うような外観をもつオフィスビルなど。その間に、二〜三階建ての古い家が居心地悪そうに残っている。昔は瀟酒な邸宅だったのだろう。いつの間にか緑がなくなっている。スモッグと埃で、目が痛くなる。横のチボタ氏の陽気さが失われ、急に寡黙になる。「チャウシェスクが街を破壊した」というのだ。 街の様子を聞くためにJAICA(国際協力事業団)の大久保所長を訪ねる。協力隊員用の『安全の手引』なるものを見せられる。このパンフレットは、なかなかの力作だった。 「ブカレストは混乱の渦中にあることを、片時も忘れるな。自分の安全は自分で守れ!」とある。このほか「子供が寄ってきたら要注意」「バッグは肩にかけずに体の前で抱きかかえよ」「タクシーで法外な料金を請求されても、口論するな」「極力人込みを避けよ」「路上の両替商は例外なく詐欺である」「警官を装った強盗もいる」「信号待ちで停車する際は、車のドアを必ずロックせよ」etc。おっかない話ばかりである。 だからこの国の首都を「地獄である」ときめつける気はさらさらないが、例の英文のガイドブックの指摘どおり、今日のブカレストは「小パリ」でないことは確かだ。街角に、“心のぬくもり”が感じられない。そういったら、「“小パリ”なんて小さい、小さい、大真面目で“大パリ”と張り合おうとした男の遺産があります。ぜひ、見物していらっしゃい」と、大久保氏が勧めてくれる。
現代の「バベルの塔」 それは「国民の館」という名の巨大かつ、奇怪な建物であった。独裁者チャウシェスク・元大統領の命令で、二万人の建設労働者と七百人の建築技師を動員、六年間にわたって年々GNPの二〇%という巨費をつぎ込んだ建造物だ。「ルイ十四世はヴェルサイユ宮殿を造ったのだから、ひとつこの俺も……」が、建設の動機だったという。 「ギネスブックによれば、床ののべ面積は、ワシントンのペンタゴンに次いで世界第二位。ビルの最上部は地上百一メート。宮殿へのアクセスのために造られた直線の大通りは、シャンゼリゼより四メート長い」。たった四ページで三ドルも払わされて求めた、英・仏・ルーマニア語の案内書にはそう記されていた。 ルーマニア中の大理石を集めて建てたというこの建造物。美醜は好みの問題ではあろうが、外観は幾何学的な美しさのかけらもない。粗野で無愛想で、かつ、威圧的である。 神話をもとに「バベルの塔」を絵画で表現した西洋の画家の有名な作品があるが、その構図が連想させられる。 この国の知識人の話によれば、この建物の全体像をあらかじめ知っていたのは、施工主のチャウシェスク氏と、お気に入りの建築家数人しかいなかった。残りの数百人は、ひたすら与えられたものを設計し建設に励んだのだという。そのせいか、内部は、ビザンチン、バロック、ロココ様式ありで、いかにも不釣り合い、不調和だ。 チャウシェスク氏が処刑された八九年、この建物はほぼ完成していたが、「無用の長物だから取り壊すべきだ」との声さえあった。彼は、ここに共産党本部と国家評議会、それにルーマニア政府を入れる計画だった。だが今では、いやがる国会議員を説得し、上下両院が入ったがそれでも広すぎる。残りは「国際会議場」と称して貸し席業をやっているが、とうてい維持費はまかなえそうもない。やはり“負の遺産”なのである。
定まらぬチャウシャスクの評価 神話の「バベルの塔」を二十世紀にやってのけたチャウシェスクとは、いったいどんな男なのか。彼の親分筋にあたるスターリンも、ロシアでそんな大それたことはやれなかった。その権力たるや、ピラミッドを残したエジプト王に匹敵するのか。 彼の在任中、内政は苛酷を極めた。弾圧で五万人の人民が強制収容所で死んだ。西欧の知人からクリスマスカードをもらっただけで、逮捕された庶民もいた。人民は、みだりに外国人と話すことも禁じられていたという。チャウシェスクは政治の重要ポストを血縁で固め、独裁主義国家、「チャウシェスク王朝」を築いた。 では、彼は国内で威張りちらすしか能のない、外国嫌いの鎖国主義者であったのか。答えは「NO」である。 彼は体操の天才少女を大勢育てて、ルーマニアの国際的な“広告塔”に仕立てあげる芸の細かい才覚ももち合わせている。六八年のチェコスロバキアの「プラハの春」に対するワルシャワ軍出兵への参加を拒否し、公式にソ連を批判した。その見返りにアメリカから、当時、共産圏では異例の、貿易上の「最恵国待遇」を勝ちとる、したたかな国際政治家ではあった。 ルーマニアの国際的な地位は、現在よりもチャウシェスク時代のほうが輝いていた。ソ連とアメリカの目を盗んで、イランと親密な関係を結ぼうと試みたこともある。ルーマニアの知識人は、このたぐいまれなる独裁者の功罪を本音ではどうとらえているのか、ブカレスト大学のイワン・ミハイレスク学長にぶつけてみた。 「彼は、才気としたたかさを備えた有能な政治家であったことは間違いない。だがその功罪の評価には歴史的時間を要する」というのだ。もっと何か言いたそうだったが、答えはそれだけだった。 チャウシェスクの後のルーマニアは、西欧から嫌われ「EU参加の待合室」にも入れてもらえず、外交は展開難。内政は社会不安と経済の昏迷で、長い“混沌のトンネル”に入ったままだ。日々の出来事に追われ独裁者の残した政治的“遺産”の棚下ろしどころではない。それが今日のブカレストの苦悩する現実だった。
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