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“平安才女”と“逆おしん”物語 ウランバートルには、ひとつだけだが日本とモンゴルの合弁ホテルがある。名前は「フラワー」という。五年に一度の国際モンゴル学会の会場のとなり、その関係で私も宿泊したホテルの名はジンギス・ハーンで、案内書は「英・仏・独可、カードはVISA,AMEX,OK」とあったが、こちらは「日本語もわかる。うどん、カレーあり、カードはJCB,VISA、カラオケあり」と書かれている。日本風大浴場もあるのだという。 通訳のゲレルマ女史が、「フラワーに案内する」と言い出した。この街のホテルは、たいていモンゴル語名だが、ホワイトハウスとかニューキャピタルのような英語名もある。こちらは英語国との合弁なのだが、日本との合弁ならいっそのこと「ホテル花」にすればよさそうなものなのに。「FL0WER HOTEL」では、いかにも響きが安っぽい。それに私は、外国では日本食は原則として食べない。高くてまずいから……。 そういう私に、ゲレルマ女史は苦笑しつついう。 「ホテル・ハナより、英語のFL0WERのほうがモンゴル人には格好がいいのです。日本食がいやなら、あとで韓国レストランに連れて行きます。とにかくたったひとつの日本のホテルなのだから、ちょっと見物だけしたら……」。ほとんどバイリンガルに近い達者な日本語でそういうのだ。 この「ホテル・花」、案の定、短期間の日本人旅行者である私には何の変哲もない、もっとも一カ月も大草原を旅するこの国に淫した日本人観光客にとっては、「ゆ」のノレンのかかった大浴場や、一杯のかけそば、いや一杯のカレー、うどんのあるこのホテルは、オアシスであるに違いない。 ゲレルマさん。年のころ三十七、八。ウリザネ顔である。やや細い目が眠そうに見える。百人一首のカルタにある清少納言のさし絵そっくりである。日本人のホテルのバーで、この人とウイスキーの水割りを飲むと、私のバーチャルリアリティの世界にある平安時代の日本の才女と対面しているような錯覚におち入る。彼女は低音でハスキー。モスクワ大学留学中学習したという日本語は、ほとんど完壁に近い。この人の日本語のうまさは、モンゴル語の言語体系が日本語に近いこと、それに彼女自身のもつ情感が日本人と共通するところがあるのではないか??とお見受けした。 彼女は行政府の文化部門の公務員だが、通訳はアルバイトである。 「わたし、時々考えるのです。それは日本人は仏教徒かどうかということです。それを教えてほしいのです」 「エッ、どうして……」 この問いに彼女は無言のままである。多分、この国の仏教である密教的色彩の強いラマ教と、この国のホテルのバーで快活にふるまっている金持ちの日本人団体客の雰囲気との大きなギャップにとまどったのだろう。どこから見ても宗教とは無縁の人々と映ったのだろう。 「私たちの世代は、ソ連とモンゴルの社会主義に、宗教は阿片であると教育されてきました。モンゴルの発展を邪魔しているのはラマ僧で、あれは迷信でふしだらなものだと教えられた。でも、私は、そうも思っていない。ラマ教は清朝がモンゴル人をダメにするために勧めたのだと歴史の教科書に書いてあったけど、それは違う。ラマ僧はチベットから、医学や天文学、農学、薬学などの科学をモンゴルにもってきたのです」 彼女の、モンゴルの伝統的宗教文化、ラマ教の解説である。 フラワー・ホテルの会話がご縁で、翌朝、この国第一のラマ教寺院、ガンダン寺を訪ねてみた。建立は一八三八年、ウランバートルを住居にした高名なラマ僧から五代目の活仏が開いたもので、同名のラマ寺がチベットのラサにあるという。金閣寺を連想させる金ピカの本堂と礼拝所、それに宗教大学も併設されている。日曜日のせいもあってか、浅草の縁日ほどではないものの相当なにぎわいである。そして感じたのは、ひと口にモンゴル人といってもいろいろな顔があることだった。おそらく、日本人の顔とか体型の種類の十倍の多様性があるのではなかろうか。 この人たちが、一様に観音像に“五体投地礼”(頭と両腕と両ヒザを地べたにつけて、うつぶせのまま頭上で合掌する)をやっている。「オンマニ・バドメ・フーム」と念仏を唱えている人も。アミダ仏信仰なら「南無阿弥陀仏」に相当する言葉だとのこと。これはラマ密教の秘密語で唱えると、不思議な力が得られ、煩悩が去るのだという。 この寺で一番大きな観音像は高さ二十メートもあるカンダン寺は一九三六年から四七年までソ連の命令で完全に閉鎖されたがその時代、この観音像は撤去され、ソ連に持ち去られた。九二年の社会主義離脱後、再建話が持ち上がり、仏像の行方を捜したが、見つからなかった。頭だけエルミタージュ美術館にあるとのウワサもあったが、その形跡はなかった。 「あの時代は、人民革命党の書記長以下六人の幹部がソ連に連行された。いまだに消息不明、粛清されたんでしょうね。仏像も多分、溶けてなくなったんでしょう」 同行のモンゴル学者の窪田純一氏はいう。九六年に、信者たちの浄財で再建運動が始められたが、首から上の部分の資金が足らず、日本の阿含宗の寄進でようやく完成したという。 窪田氏に旭鷲山の家に連れていってほしいと頼んだ。「ゲレルマが、モンゴル相撲は年に一回、七月十六日のお祭りのときしか見物できないと言っていた」というと「そう、日本みたいに年に六回もやってません」と、窪田氏。ウランバートルの官庁街から車で五分の一等地に、旭鷲山ことバトバヤル(永遠にうれしいという意味)が購入した、小さな競技場の跡地があった。夏草が茂っている。引退したら相撲学校を開設する、とのことだ。 「バトバヤルのお母さんの家がある」と案内の運転手(政府議会局の役人のアルバイト)がいう。行ってみた。日本の公団アパート風の建物の一画だった。旭鷲山が母親のために買ったのだという。隣接の区画にコの字型にショッピングセンターがある。彼の母親は、もともとこの区画のひとつの店の店長だったが、孝行息子が全区画を買収して、母親にプレゼントした。何やら、誇らしげにロシア文字の看板がかかっている。窪田氏に読んでもらう。その名は「幸運山ショッピングセンター会社」。おしんは息子に“八佰伴”をもたらしたが、辛抱息子が母親に“八佰伴”をプレゼントする。モンゴルの“逆おしん”物語である。
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