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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 家を空けてばかり  
コラム名: 私日記 第16回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
PHP研究所に無断で複製、翻案、送信、頒布するなどPHP研究所の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  二〇〇一年一月一日

 今日は二十一世紀初めての元旦。大阪のホテルの和食堂でお雑煮と小さなお節料理。大げさでなくておいしい。

 正午頃、太郎(息子)夫婦またホテルに来る。孫の太一は大学受験生なので、来なくていい、と言っておいた。お年玉を太郎夫人の暁子さんに渡し、「太一のお年玉、お父さん(太郎)に取られないようにね」と言っておいた。太一も無駄遣いをしない子である。我が家では吝嗇のDNAが男性に三代続いている。

 昼食後、太郎夫婦を駅に見送って少し町を歩いたが、店は開いていないし、映画もおもしろそうなものがない。こういう日に店を開ければ、お年玉をもらった連中だけでも購買力があるだろうに、不景気と言いながらどうして儲けようとしないのだろう、と不思議な気がする。大阪商人の発想は違うのだろう。

 早めに部屋に帰って読書の続き。これは大変な賛沢。風邪は年を越した。いや二世紀にわたって引いているという方がせめて勇壮でいい。そして軽い風邪引きの時ほど、本がよく読める。

 

一月二日

 午後早々の新幹線で帰宅。

 

一月三日

 昔からの三人の友人が夕食に来る。皆、今年だけは日本流に言うと、新年を祝わないことになっている人たち。うちでは、お年始のお客はないのだが、いつも三日の日には、新年を祝わない人が、集まって喋る。この友人たちは、ご主人や高齢の母上を見送られて、一人の生活を始めた人たちばかり。もちろんぽっかり開いた心の穴は埋めようがないけれど、三人共心ゆくばかり看護を尽くした人たちだから、思い残しはない表情でほっとする。しばらくは痛みの激しい内面の傷を、ごまかしごまかし癒し、看病の疲れを取ってから残りの人生を人にも尽くして楽しく生きてほしい。「うんと遊びましょうね」と言う。あの世で再会した時、楽しいお土産話がたくさんあるように。

 下鴨茶寮から届けられた芸術的お節を皆で頂く。お隣のフジモリ前ペルー大統領にもお届けしようと思っていたのだが、フジモリ家には大晦日にどなたかファンからやはりすてきなお節が届けられたと知らされていたので、ほっとした。よかった、よかった。

 

一月四日?八日

 家でごろごろ寝正月。

 

一月九日

 休みの間に治るはずだった風邪は、まだ咳がひどい。執行理事会の後、会議一つを中座して帰宅。だるくてたまらない。さんざん迷った後、明日、日本財団で行われる予算説明を休ませてもらおうかと思う。

 

一月十日

 一日二階の寝室から下りないことにしたのに、昼少し前、台所に下りたら包丁がひどく切れない。前々から気になっていたのだが、家中の刃物をここのところ研いでいないのである。何となくフユカイになり、電動の研磨機を出して来て、家中の包丁を研ぐ。ついでに隣家のも研いだ。これは私の道楽の一つだ。別に力がいるわけではないから軽く砥石で仕上げをして、三十分ほどで七、八本皆仕上げてしまった。風邪で休ませてもらったのに、包丁研ぎをしていることがばれたら、悪いなあ、と思ったが、これで安心してうつらうつらできる。

 

一月十一日

 午前十時から、各部の予算案の説明。二時から練馬区の歯科医師会の講演会。

 講師に選ばれて、別に歯の話をするわけではないのだが、私は何しろ眼が悪くて、歯と耳はいいのだから、歯で選ばれる資格はあるかな? などとくだらないことを考える。歯はまだ全部自前。アフリカの若い母たちは、十五、六歳で子供を生むようになると、三十までに七、八人の子持ちになり、もうほとんど歯がなくなっていることもある。痛ましい感じがする。日本人はそのような意味でも、ほんとうに恵まれている。

一月十二日

 午前十時から夕方まで、財団で予算案の説明の続き。一九九五年に日本財団で働くようになって、初めての年が明けて一九九六年の一月にこの「予算説明」というものを受けた時には、全体を考えるということはほとんどできなかった。しかし今では、一つ一つの案件をおおまかには記憶するほどになった。馴れと学習というものはありがたい。けれどこれは今でもかなり疲れる仕事である。

 夕方、陳勢子さんと小杉瑪里(朱門の姉)とパレス・ホテルで朱門七十五歳の誕生日の食事。ほんとうはこういう場合は、うちがおごるのが当然と思うのだが、なぜか勢子さんがどうしてもローストビーフを食べさせてくださると言われるので、「はい、はい」と素直にごちそうになってしまった。

 朱門は「知寿子(私の本名)に風邪をうつされた」と恨めしそうに言う。私も「咳やコンコン」という感じ。でもローストビーフはおいしくて、よく食べたのだが、声がよく出ない。帰って朱門はさっさと寝てしまう。私一人書斎でごさごさしていたら、何人かの方たちが、お祝いの電話を掛けて来てくださったというのに、当人はもう寝てしまっている。ひたすら恐縮。

 

一月十三日

 午後、家を出て豊橋へ。電車に乗り換えて蒲郡の市民文化協会創立三十周年記念講演会で講演。その後、再び蒲郡に出た。電車の途中駅まで、私の講演を聞きに来てくださったという男性と話をした。元教員だったというが、暴力的な教室で仕事を続ける自信を失った、というような話だった。私は人が職業を変えることに極めて寛大なような気がする。どうしてもだめな時は、他のことをしなさい、という命令のような気がするのだ。私のように最初からひどい近眼で、人と付き合うのが怖いから、小説家になる他はない、などと思う方が例外だろう、と思う。

 蒲郡から新幹線で今夜は名古屋泊まり。


一月十四日

 朝、切符の時間を見間違えて、危うく約束の新幹線に乗り損なうところだった。親切なホテルのボーイさんに教わって、途中までむだなく行けるようにしてもらってやっと間に合った。

 私の精神状態は、わりと健康なのだ、と思う。エラーをやりそうになるくらいが人間というものだろう。お昼近く広島着。

 広島国際会議場で広島文化センターの「国際交流・協力の日」の基調講演。その後すぐ、車で送って頂いてリーガロイヤル・ホテルに移り、そこでもう一つ広島医師婦人会四十周年記念講演。とは言っても、女性だけの講演会ではない。私は女性だけというのが、どうしても好きではない。おひまな方はどなたでもおいでください、というのが好きだ。

 今日は広島の近くに住む聖心女子大学時代の同級生が数人、ホテルに泊まって、私の仕事が済むのを待っていてくれる。ホテルの食堂で夕御飯。いつもお魚好きの私が、勝手に地のお魚料理を数品取って食べたがるので、こういう食事を計画してくれる。

 

一月十五日

 昨夕、雪が降った。

 早めに止んだからいいようなものの、早朝、広島空港までタクシーが行かなかったらどうしよう、と心配したが、無事に出発。羽田からまっすぐ財団に出勤。

 予算説明続き。四百億円を超える予算となると、くたくたになるのも当然だろう。

 夕方、アリトミ前駐日ペルー大使ご夫妻が、新年の挨拶に来てくださるというので、自宅でお迎えして、そのままフジモリ氏もごいっしょに自由が丘へ行った。知り合いの店「与喜」で食事。

 このわた、ひりゅうず、なまこ、など、召し上がったことのないものをこの際全部差し上げてみる。これも日本学の一つだから。どれもおいしい、と言われる。店のご主人の大学の教師時代の教え子なので、朱門の誕生日のプレゼントに、立派な舟盛りの鯛のお刺身を出してくださった。

 その後のメイン.コースは鮟鱇鍋。ペルーには、日本人の好きな海産物が何でもあるらしいが、ペルーの人はほとんど食べないと言う。ああ、もったいない。

 

一月十六日

 十時、執行理事会。

 十一時半、NHK出版。

 一時、『倫風』誌、インタビュー。

 二時、PHP研究所出版局。後、財団の雑用種々。

 

一月十七日、十八日

 だるさと咳と仲良くつきあいつつ、自宅にいられる。風邪もなかなかいいものだ。

一月十九日

 夜、拓殖大学の渡辺利夫国際開発学部長、井尻千男教授、お見えになる。ちょうどいい機会なので、フジモリ氏もお誘いして近くの焼きとり屋さんで、釜飯など。

 

一月二十日

 十時半発の新幹線で新神戸へ。

 市民福祉セミナーで講演。

 それから京都へ。雪降る。

 

一月二十一日

 電車で亀岡へ向かう。途中電車からの景色を楽しむ。ボランティアフォーラム21で講演。心身障害者の施設「花の木学園」に立ち寄る。通園して来る大人や子供の施設の増築費用四千五百三十万円を日本財団が出させていただいて、前日、開所式が行われた由。今日は日曜日で通園の人はいないが、安全で清潔な療育室や遊戯室などが完成していた。

 廊下に寝そべったままの人たちも多いが、危険が全くない空間だから、のびのびとしたいようにさせておいてあげられる。ただ、気管切開をしなければ、痰を出せない人たちが何人もいた。眼が見えて言葉が喋れて知能が普通なら、何とか意志の疎通もできるだろうが、声が出なくなったら、「奇声」を発して気持ちを訴えることもできない。気の毒で言う言葉を失う。それでも温かい看護によって生かされていることを感謝しなければ……。

 その後、京都から大阪へ出る。全日空ホテル泊まり。

 

一月二十二日

 十一時半から読売国際経済懇話会で講演。

 その後もう一つ大阪府市町村振興協会主催の職員研修センターで講演。飛行機で帰京して、家に着く頃、クライン孝子さんがお惣菜の御飯を食べに来てくださる。

 

一月二十三日

 十時、執行理事会。

 十一時、海洋船舶部の予算説明。

 午後一時四十五分、昨年末、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の難民高等弁務官を辞任された緒方貞子さん来訪。日本財団はイランのクルド難民に百万ドルを出して、クルド難民の子供の心臓の手術もできた。私が個人的に働いている海外邦人宣教者活動援助後援会はシエラレオーネなどのお金の集まりにくい土地への寄付をさせて頂いた。長い間ほんとうにご苦労さま、という言葉以外ない。難民救済は「これでいい」という言葉が全く存在しない世界なのだ。

 午後四時に、日本にご帰国中の、ブラジルの堀江神父、ぺルーの加藤神父も来られて、財団の三階でJOMAS(海外邦人宣教者活動援助後援会)の会を開く。普段は私の家でやるのだが、このお二人の神父には、昨年南米に行ったグループが皆お会いしてお教えを受けているので、財団で会合をすることにしたのである。秘書の堀川省子さんがお握りなど運んで来た。

 昨年亡くなられたお姉さまの遺産二千万円をJOMASにくださった浜松の永田壽治氏ご夫妻と、足利工業大学の牛山泉先生もいらして、ネパールの支援先の様子を話してくださった。

 堀江神父の申請は日本財団がお断りしたので、私たちのJOMASが引き受けた。加藤神父の日系人のための老人ホームは、もう建設がスタートしているが、これはJOMASと日本財団とが別々の部分の建設を引き受けることになっている。フジモリ氏の問題があろうとなかろうと、ペルーヘの援助が阻害されたり、特別に進められたりすることはない。

 

一月二十四日

 午前中、東京を発って、新幹線で新潟へ。「新潟新幹線は雪に強いですから」と言う新潟人の言葉が思い出される。まさにその通り。日本土木工業協会北陸支部の講演会。昼食をごちそうになった料理屋さんで、古い繭玉の飾りを見る。すっかりうたれて、来年は一月十二日の繭玉の飾りの市が立つ日に、新潟に来ようと決心した。でもその家に伝わる古い飾りのような味はとうてい望むべくもないだろう。

 六時半、東京着。

 家に帰った頃、モンティローリ・富代さんを夕飯にお招きしておいた。

 

一月二十五日

 朝から仕事。

 ここのところずっと講演が続くのは、一年のうち、講演を全くしない時期があるので、すべてがこの季節に集まるからである。そして恥ずかしいことだが、今では出先の方が静かに書ける、という生活の状況もある。家にはフジモリ氏のことで機動隊が玄関先に、氏のおられるプレハブの家にはSP、私の家には地元警察の私服警護の警察官が二人ずつ待機する、という状態だから、何となく我が家が駅のような感じになっている。

 今日も夕方、富士宮市文化会館で講演。読書の好きな方たちがたくさん来てくださった。

一月二十六日

 午前中、中目黒の海上自衛隊幹部学校で講演。財団で雑用を済ませてから、江東区教育委員会で講演。その後三戸浜へ。

 

一月二十七日

 一夜明けると、雪。降り込められて動きとれず。ここへ来る時、食料を買い込んで来ておいてほんとうによかった。横須賀?横浜道路(通称、横横道路)も閉鎖されているという。

 

一月二十八日

 今日中にはどうしても帰らなければならないので、午後三戸浜の家を出る。田舎道はもう雪がないのに、横横道路はまだ閉鎖中。三浦半島の西海岸の道路を通ったのは何年ぶりだろう。秋谷、長者ケ崎、葉山、逗子、小坪と、懐かしい土地を通り、鎌倉で自棄酒ならぬ自棄コーヒーを飲んで、鎌倉街道をぐるりと廻って国道一号線に出て、四時間かかって家に帰りついた。

 

一月二十九日

 私が財団のお金や人を私物化しているという記事を書いた雑誌を訴えているので、地裁で行われた裁判に出る。私は普段から、わりと用心する性格で、たいていのものを自費で払い、その受け取りを用意しているので気楽である。もちろん裁判の費用もすべて自前。そのためにお金を溜めていたような気がする。

 裁判官という方たちは、まじめで決して表情を崩さない「人種」かと思っていたら、時々大変おかしそうな顔をなさる。どちらが笑われているのかわからないが、せめて裁判の間に、笑う瞬間がある、ということにはほっとした。

 

一月三十日

 午前十時、日本財団で執行理事会。

 十一時半、スリランカのフェルナンド大臣ご来訪。ジャフナの少し南の部分に内戦で取り残された地域があり、そこへの援助をご要請。まず土地の状況を見に伺うことが先決だ、と申しあげる。

 その後、本田維憲日出町町長。

 午後一時から、日本青年会議所会頭・土屋龍一郎氏と雑誌『正論』の対談。

 二時三十分、元ペルー日本大使・妹尾正毅氏。

 

一月三十一日

 国際ビルの建物の八階で、日本倶楽部の昼食後の短い講演会。一番古い「紳士の倶楽部」だという。私の家は、夫も私も、こういう集まりに入ったことがない。二人とも恐ろしく偏屈だったのだろう。

 午後財団で雑用。来客。

 十九時から、表参道で、知人三人と会食。親友の忘れ形見の青年に会ったのである。私たちの年になると、心にかかることをあまり引き延ばすと、そのうちに死んでしまいそうな気がするものだ。

 今日のフランス料理は私のおごりだけれど、七月にはもう一人の友人がおごる番だということに決定した。その時には好き嫌いではなくて、メニューの中で一番高いものを食べることにしようと決心し、相手にも言っておく。

 今日、私がこんなことをして遊んでいる間に、ほんとうはJOMASの年間の報告書約二千四百通の発送がされていたのである。封筒の切手は、秘書の堀川省子さんのご両親、糠谷正雄氏とこの夫人が、一年がかりで貼ってくださった。おかげで慌てなくて済んだ。切手は寄付も少し頂くが、約二十万円かかる。

 今日報告書を発送する作業は、行廣みち子、石井洋子、久保田祐子、庄司由紀子、山岸未代子、佐藤和子の六人の聖心女子大学の後輩、義姉の小杉瑪里、妹の宇田川英美、の諸姉がやってくれたという。感謝の他はない。

 それに今日不思議なことがあった。数日前にまだお会いしたことがない方から、ご自分の会社が店仕舞いをするので、使い残しの封筒を寄付してくださるという電話があった。しかも向こうさまの言われる枚数が、来年の必要分三千枚にぴったりである。それがしかも今日送られて来た、というのだ。こんな偶然があるのだろうか。

 

二月一日

 太一(孫)、受験のために母親と上京。

「僕は東京の大学に行きます」と周囲の人に言う度に「偉いわねえ。東京大学を受けるの?」と言われるので、「東京大学じゃなくて、東京の大学です」と答えていたという。目的は、文楽と寄席と歌舞伎とオペラとオーケストラに通いつめるためだそうだ。風邪も引かずに受験ができそうでよかった。

 猫のボタは、少しぼけて、ますます食欲旺盛。おまわりさんの食べ残しのお弁当殻を舐めたそうで恥ずかしい。これでも一応ちゃんと餌はやっているのに。

 私はまだ咳をしている。今年の風邪は三ヵ月かかるという人がいたから、もう一月半はかかるということになる。
 



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