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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 能弁なデータ  
コラム名: 地球の片隅の物語 第四十七話  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 1998/07  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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   この連載を続けるための内輪話はまだ正式に書いたことがなかったと思うが、編集部が、私のためにシンガポールの『ザ・ストレイト・タイムズ』という新聞を取ってくれている。なぜ『ザ・ストレイト・タイムズ』なのか、というと、私は時々シンガポールに行くので、そこで発行されている新聞なら、外国語でもややバックグラウンドを理解し易い面があるからである。
 実は以前イギリスの新聞も取っていた。ところが、告白するとイギリスの新聞の英語は、私には難しすぎたのである。シンガポールの新聞なら、私はまあまあ楽しみで読もうという気になる。しかしイギリスの新聞は手にするだけでやれやれこれを読むのか、と義務感を感じるのだから大きな差である。
 ほんとうは別に『ザ・ストレイト・タイムズ』でなくてもいいのだ。タイの『バンコック・ポスト』でもいいのである。これらの新聞は、やはりアジア種がたくさんある。更にシンガポール人の中には息子・娘をヨーロッバの大学に送っている人も多いから、眼は結構ヨーロッバに向いている。それでヨーロッパの記事もかなり出ている。むしろ日本人の方が、近東やヨーロッパのことに関心がないように思う。
 それと日本の新聞より明らかに『ザ・ストレイト・タイムズ』の方が私向きだと思うのは、時々絵入りの解説記事が出ることである。こういうことをしたら、日本の新聞の読者たちは「こんな子供じみたことをするな。俺はもっと知的人間なんだぞ」と怒るかもしれないが、インドの核実験がどんなふうに行われたか、などということに関しては明らかに『ザ・ストレイト・タイムズ』の方がよくわかるように解説してくれている。
 それによると今度のインドの核爆弾は、新しいアグニ・ミサイルに搭載される。これは、パキスタンと中国を含む十五の国を攻撃範囲に収められる二千二百四十キロの射程を持つものである。既にインドは七十四個の核弾頭を作れるだけのプルトニウムを保有しているという。
 今度、インドで実験が行われたラジャスタン州のポクランという町に近い砂漠の実験場は、パキスタンの国境からたった百五十キロしか離れていないのだそうで、パキスタンを怒らせるのも無理はない。しかしそれならパキスタンはイノセントかというと、そうでもないのである。パキスタンの実験場は、これまたお隣のイランの国境にぴったりくっついたチャガイ・ヒルズという土地だそうだ。
 一九四五年から一九九六年までの間に、地球上では合計二千四十六回のメガトン級の核実験が行われた(一メガトンはTNT火薬の百万トンに相当するという解説もちゃんとついている)。その回数の内訳は、ダントツがアメリカの一千三十二回、次が旧ソ連の七百十五回、次がフランスの二百十回、イギリスが四十五回、中国が四十四回である。
 アメリカという国は、人にたとえたら、全くでしゃばりでいばり屋で自分勝手で、自分のやることは正義、自分が世界を裁けると思っている、実にコマッタ存在だとこのごろ思われ出した。ヒロシマとナガサキに原爆を落としたのは、戦争を早く終結させるためで、いたしかたなかったのだ、と言っておきながら、その後一千回以上も実験をやっているのである。
 アメリカにすれば、自分が絶対に優位な立場で核を保有している限り、めったやたらなことには使わないから大丈夫だ。しかしイラクのサダム・フセインのような男に持たせれば危険だということなのかもしれないが、それも思い上がった話である。アメリカには西部劇から『ダーティハリー』まで「オレが正義」という伝統がある。今の時代でも自分が正義の人だと思い込んだら、裁判なしで二挺拳銃で相手をやっつけてもいいのだ、と考えるのである。その徴候が最近ますますひどくなって来た。インドの核実験を非難できるのは、日本のように核を保有していない国だけである。
『ザ・ストレイト・タイムズ』は私のようにこんな浅はかな論評を加えたりしない。ただ淡々と事実の数字を掲載する。この数字があれば、人は自由にものを考えられる。インドの核実験に際して、アメリカの実験の数を日本の新聞が書かないというのは、やはり怠慢というものだろう。
 私が旧ソ連の核爆発の数にいささか関心があるのは、いま私が働いている日本財団が、チェルノブイリ原子力発電所の事故後の調査を続けているからでもある。チェルノブイリの事故後、私たちの財団は、一切の思想と批判とは別に、いったいあの事故がどれほどの影響を周囲の人々に与えたかという調査の一部を始めた。当時ゼロ歳から十歳までの子供たちを対象に、今までに約十五万人の検診をして来たのである。
 今までの日本では、データなしでものを言うことが比較的簡単に受け入れられて来た。しかしものを言う前には、データがしっかりあるべきだし、なければ、まずそれを集めることからするのが順序だろう。
 チェルノブイリの場合も、事故によって非常に大きな異変があったとは言えないのだが、その資料はすべてのマスコミに自由にお使い下さい、と言っている。しかしなぜかあまり取りに来る人がいない。つまり皮肉を言えば、甲状腺癌や白血病が異常に増えた、という明らかな因果関係でもあれば、マスコミは大騒ぎをして資料を取りに来るのだろうが、医師でもない私が、ここで大雑把な報告をすることさえためらっているほどの小さな変化しか出ていないと、原発の事故と病気の因果関係も決定的ではないということになる。そうするとマスコミはほとんど興味を示さないのである。
 しかしこのチェルノブイリ以来、財団には時々、旧ソ連時代の核実験場付近の住民の健康診断をしてもらえないだろうか、という旧ソ連圏の国からの「要請の打診」みたいな段階の話が持ち込まれることがある。それを日本財団が引き受けるということは人的にも経済的にも大きな負担になるから、簡単に応じるわけにも行かないのが実情だ。
 アメリカの一千三十二回の実験には、必ず結果というものがあるはずだ。もしほとんど人体に異常がないというのなら、原爆は破壊兵器として当座以外には恐れる必要がないということになり、今後使っても平気ということになりかねない。影響を隠していて、実験は人的影響一切なし、ということだと、アメリカの民主主義や情報公開の原則も怪しいものになって来る。
 つまりデータというものは、何もセンセイショナルな感情の誘導をしなくても、私のような素人の暇人にさえ、この程度の、正しいのか間違っているのかわからないようなインパクトを与えてくれるのである。
 インドが初めて核実験をしたのは一九七四年五月だそうで、その現場の荒れ果てた惨状なるものの白黒写真も掲載されている。よく原爆にもきれいな原爆と汚い原爆がある、という表現があって、インドの原爆の場合は汚い原爆だったのかもしれないが、もともとインドの広大な自然の中には、核の実験場ではなくても、これくらいの見捨てられたような土地があるのはごく自然である。国中がすみずみまで人工的に手の入れられているシンガポールでは、こういうところを勘違いするのかもしれない。

『ザ・ストレイト・タイムズ』のこうした「解説記事」「教養記事」には日本には全くない種類のものもあるので、死亡広告と同じくらい私の興味を惹く。
 この連載で紹介しようと思いながら、まだ延び延びになっていたこの手の記事に、シンガポール国防省の広報記事として出たものがあった。広報というものに興味のある私としては、なかなかよくできているので、少し触れてみたいと思う。
 この国では、日本で言う徴兵のことを「ナショナル・サービス」と言う。それだけでもよくできたイメージ作りであり、記事は国防省のその月のニュースレターという形になっている。「ナショナル・サービス」のサブ・タイトルには「A VITAL PART OF OUR LIVES」という表現が添えられている。
 ヴァイタルという英語は、日本では「生き生きした」という意味でよく使われるが、ほんとうはラテン語の「生命の」という言葉からでた単語で「生命の維持に必要な」とか「命にかかわる」「極めて重大な」というような意味が優先する。つまり国の防衛に参加することは、「私たちの生活の死活にかかわる部分だ」と言っているのである。
 そこにはリー・クワンユー前首相の言葉がまずあげられる。
「我々は自分を護ることを他人には任せられない」。
 表現には一種の韻が踏んである。
「It will not do to depend on others to defend us」である。
「もしも或る日、我が国に面倒なことが起き、外敵が侵入してくるようなことがあって、その時、我々を護るものが別の国に属しており、我々に忠実でない人々、我々によって雇われた人たちだけであったとしたら、我々は大変な苦境に陥るだろう。その時後悔しても、もう遅いのだ」
 このような素朴で端的な表現を、実に日本人はほとんどまともに聞いたことがないのである。ましてや大新聞が、そのような広報を全一面で掲載したことなど一度もないだろう。
 なぜかと言えば、大新聞がお好きだった進歩的文化人は、外国が攻めて来るという可能性をどうしても認めず、万が一、そんなことがあっても国連軍が護ってくれるだろう、などとノーテンキなことを言っていたからである。しかし多くの国から供出された国連軍など、無責任な貧しい傭兵の最たるもので、いざとなると何もしないだろう。
 アメリカは湾岸戦争の数日を戦うために、近東から油を買う日本から、一兆円以上を請求して行った。その前のイラン・イラク戦争の時には、アメリカはイラクを支持したのだから、戦争などというものは十分にご都合主義で起こるのである。その程度の簡単なことも日本人には読めず、日本の指導者もそれに対抗するだけの大人の論理を国民に披瀝して教育するということをしなかったのである。
 国防省の広報は次のように締めくくる。「今日、シンガポール空軍三十万人のうち、二十五万人はナショナル・サービスの人です。彼らは、我々が平和に生きられるように安全を確保する上で、頼りにしている人々なのです」
 もちろんすべてのことには裏があるだろう。失業者が増えれば、ナショナル・サービスをしてもいいという人も増えるだろう。しかしゴミを出すことからPTAの当番、クラス会の幹事に至るまで、人間はしたくなくても、集団として、社会の一員としてしなければならないことがある。その現実を一切教えず、その責任をほとんど認めないというのも、考えてみれば薄気味悪い教育である。

 私たちが今日、動物愛護や自然保護に熱心なのも、自分が食べるに困らないからかもしれないという逸話が同じ新聞に出ている。
 昔からタイでは「お寺の犬は決して飢えない」という諺があった。しかしこの状況が最近少しずつ変わって来ている。ここのところの深刻な不景気のせいで、ペットを飼いきれなくなった人たちが、お寺へペットを捨てるようになったのである。
 たとえばバンコックの北の郊外にあるワット・クラン寺院の院長のプラ・サントーン・ワタナコーンは言う。
 ワット・クラン寺院では、既に三百匹もの犬を捨てられてしまったので、今度は寺側がそれだけの犬に餌を与えるのがむずかしくなりかけている。
「昔は寺では餌を二度与えていたものでした。しかし今は一日に一度です。或る寺では僧たち自身が十分食べていないのですから、彼らは困って五十匹の犬をこの寺へ移動させたのです。
 私自身犬が好きですから、決して拒絶はしません。しかし犬をおいて行く人たちに言いたいのです。それなら、時々餌を持って来て、私たちといっしょに犬を生かすための犠牲を払ってください、と」
 タイでは今、非合法の賭け事が大はやりだという。それで不運を巻き返すつもりなのである。彼らの多くは、人生は月に三日だけしか意味がない、と思っている。一日と十六日と二十日。いずれも宝くじが売り出される日である。後は仕事もなく、だらりと一日を生きてるのだろう。
 酒と賭け事はよく似ている。適量のお酒は、健康にもなり、友だちとも楽しめる。しかし量を過ごすと、自分の健康を損ね、家庭を悲劇に追い込む。賭け事も同じだ。つまりすべては扱い方次第なのである。日本でもサッカーくじに対して、賛否両論だが、賭け事にはブレーキが必要だ。そして健康な賭け事の場では、人はなぜか普段よりよく笑うものなのだ。
 



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