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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 緊急時?許される範囲で“違法”もある  
コラム名: 自分の顔相手の顔 285  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/11/08  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   少しも気張ったことがなく、ごく自然なものの考え方と喋り方をする若い奥さんが、防災訓練の話をしてくれた。
 知人を訪ねて行ったら、そこの学校で防災訓練をしていたので、何となく自分も聞くはめになった。講師は区役所の人、と紹介された。
 まず浄水器について、汚れるとこのゲージが示すから水で洗え、と言われた。「洗うのはプールの水でいいんですか?」「いや、水道水でしてください」水道が止まった時にこの器械を使うのだから皆戸惑った。講師は続けた。
 「緊急用かまどはガソリンで炊くのと、灯油で炊くのと二種類。投光機はガソリンだけ。浄水器はガソリンが25で2サイクル用オイルが1の割合」「とても覚えられないですね」「ガソリン・スタンドに行けば売ってもらえます」
 私の知人はただ「あれ、そんな時にガソリン・スタンドがいつもの通り営業しているはずはないじゃないか」と思ったというのだが、それは確かに正しかったようだ。
 阪神淡路大震災の時、予測と違ってガソリン・スタンドで爆発や火災が起きたのは、一軒もなかった。しかし住人に聞くとガソリン・スタンド自体は、もうその朝から全く開店しなかった。
 電気の復旧は感動するほど早かった。それで電熱器で調理をしていた人もいるが、時々停電したので、いささかの不便はあった。私の息子の妻の話によると、スキヤキをする時のガスボンベでご飯を炊けたので、ほんとうにありがたかった、という。
 こんなことだからあの時、政府はパンを配った。パンなら何一つ燃料もいらない。完全な救急食品である。社会や国家に総合的な国力がなけれぱそんなことはできるわけがない。それでも被災民は、パンばかり食べさせる、と文句を言った。
 「ガスや電気なしで自炊する時には石三個よ」
 と私は言った。石三個あれば鍋がおける。その下で、拾って来た木片を燃して米を炊くのが常識的なやり方だろう。ところが「そんなことをしたら、空気の汚染になるでしょう」と別のところで言われたことがあって、返事に困った。
 地震の後の非常時の話をしているのに、空気を汚染させてはいけない、という立派なご返事なのだ。インドでも何億、アフリカでも何億が、毎日毎日空気を汚染させる薪で炊事をしているのを、この人はどう思っているのだろう。
 石三個の下の薪はどうするのですか、という質問を受けたこともあった。地震の後を想定した話なのだから、まず自家が倒壊していれば、そこで出た材木を焚く。自家は倒れていなくて、隣家が倒れていれば、破片を勝手に頂いてきてそれを燃す。隣家も倒れていなければ、道で何でも燃えるものを拾うか、誰かの家の庭木の先を少し盗んで切り取る。何でもいい。
 今の時代の人はいい人ばかりで、この程度の「緊急時ゆえのお許しいただける範囲の盗み」さえも思いつけない人が多いのが、却って私には不気味なのである。
 



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