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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 土木の社会的価値とすばらしさに自信と勇気を  
コラム名: Interview 第1回(連続4回)  
出版物名: 建設グラフ  
出版社名: 自治タイムス社  
発行日: 1998/05  
※この記事は、著者と自治タイムス社の許諾を得て転載したものです。
自治タイムス社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど自治タイムス社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
       32年前のタイの建設現場は

  旧約聖書「ヨブ記」そのもの
 
 
わが国を代表する女流作家のひとり、曽野綾子氏(日本財団会長)が、産経新聞に寄せたコラム「自分の顔相手の顔・土木の仕事」は多くの建設関係者に深い感動をもたらした。土木の誇りを力強く訴えたそのコラムには、「涙なくしては読めなかった」、「あのコラムには泣けました」といった反響があり、ともすればマスコミや社会批判にさらされる建設関係者に、改めて社会的な自信と勇気を取り戻させた。それは自らダム現場などに入り、作業を手伝いながら技術を学び、現場に命を賭ける土木技術者の生き様や苦労と喜び、その人生に身を挺して接してきた同氏だからこそ表現できたものといえよう。土木が正しく伝えられず、正しく評価されなくなった今、本誌は改めて同氏にインタビューし、土木の社会的価値と素晴らしさを再確認する場となるべく特集(4回)する。
 
 
??先生が新聞のコラムに書かれた『土木の仕事に誇りを』という記事に、多くの人々が共鳴しています。文学者である先生が建設事業に関心を持たれたのは、そもそもどんないきさつからでしょうか


曽野 今から32年ほど前ですが、タイに遊びに行った時のことです。私は外国に行った時は、必ずその国の「揺りかごから墓場まで」を見ることにしています。病院から墓地まで、時には焼き場にも足を運びますが、その当時、タイの北部では、アジアハイウェイの建設が進んでいました。工事は前田建設と鹿島建設で行われていましたが、聞けばそこは少しオーバーですが、地獄のような現場だと聞かされました。
 そこで、私は土木のことは何も分からないまま、ランパン〜チェンマイ高速道路第二工区を見学したのです。延長28kmという長い現場で、埃りが黄粉色をしている土地でした。そこで私は、現場の皆さんがご苦労されているお話をお聞きして、大変感動したのです。なぜ感動したのか、その時はよく分かりませんでしたが、そういうことがよくあるのです。
 しかし、旧約聖書に「ヨブ記」というのがあります。私は聖書の専門家というわけではないのですが、このタイの現場は、そのヨブ記さながらだと思ったのです。


??ヨブ記と、どんな共通点があると思われたのか、ヨブ記の解説を含めてお聞かせ下さい


曽野 ヨブ記は神と悪魔のお芝居のような物語です。主人公であるヨブは、現代の表現で言えば豊かな牧畜業者で、信仰心が篤く、行いの正しい義人です。神はヨブを義人と認めていますが、悪魔は「ヨブはいい暮らしをしているから行いが正しいのであって、それがどん底につき落とされたら、何をするか分からない」と反発します。そこでそれを試すことにし、神はヨブの扱いを悪魔に任せました。
 これによってヨブば落雷で天幕が焼けて息子や娘たちを失い、盗賊に襲撃されてしもべや家畜も失います。のみならず、自らも皮膚病に犯されてしまいます。一説にはハンセン病とも疥癬とも言われていますが、とにかく人目にもつくし本人も痒くて辛いわけです。そこで3人の友人が、彼を励まそうと訪ねて来るのですが、遠目に見ても分かるほどの変わり果てた姿に驚くんですね。
 旧約聖書の時代にあっては、老、病、死は「人間の罪」の結果と見なされていました。そのため病気にかかると、人々から「どんな悪事をはたらいたのか」などと言われるのです。したがって、ヨブも同様に言われるわけですが、しかしヨブとしては何一つ悪いことなどしてはいません。にも関わらず、そうした悲惨な結果になった。すると友人たちは「それなら神を裏切れ」と言うんです。妻にも「こんな目に遭わせられながらも、まだ神を崇めるのか。神を呪って死ぬべきだ」と言われますが、ヨブは「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも神から受けよう」と言って、神を裏切りませんでした。こうした物語が42章6節まで続きます。
 ところが42章7節になると、一変して、齢を取ったヨブのおかみさんから次々と子供が生まれます。そして一匹もいなかった家畜が増え出し、以前よりも多くなり「ヨブは二度び報われり」という結末で終わります。
 ただ、42章6節までは詩のような形式ですが、42章7節になると散文体に変わるのが奇妙です。これについて聖書学者の見解では、ヨブが報われる42章7節以降は、勧善懲悪の好きな読者のために、後世の人が後から書き加えたもので、真実のヨブは、義人であって神を裏切らないのに現世ではろくなことがなく、そのまま死ぬという解釈です。それを知って、私は素晴らしいと思ったのです。
 私は聖書学者の見解通り、42章7節以降のないヨブが真実のヨブだと思っていましたから、北タイの現場を見てまさにそれだと、日本に帰ってから気が付いたのです。


??北タイの現場も、それに似ていると感じたのですね


曽野 北タイの現場について、後に鹿島守之助さんがおっしゃったそうですが、「なぜウチがあれほどに損したのか分からない現場だった」ということです。心配して社員みんなに聞いても、決まって『会長、ご心配なく』との返答だけだったとのことです。鹿島さんは、私の小説を呼んで『よく分かった』とおっしゃって頂きましたが、本当は少しウソもあるので、私は内心ではドギマギしていたものです。


??そこから建設関係者との接点が生まれたわけですね


曽野 北タイの現場を見学した後、唐突にも前田建設に電話をして、自己紹介しながら北タイでお世話になったことをお話しし、土木の勉強をしたいので協力をお願いしたら、とても親切にして頂きました。それでタイの現場に関する全ての資料を頂いて、勉強を始めました。
 いつも笑い話になりますが、当時は私はダムの作り方はおろか、骨材って何だか知らなかったんです。骨材とは鉄筋のことだと思いこんでいたので、説明を受けた時、なぜ「鉄筋を山から取ってくるんだろう」と思いました。それでも30分ほどは知ったフリをして聞いていたのですが、いよいよ話が合わなくなってしまったのでお聞きすると、つまり砂利のことなんですね。
 そうした基礎から勉強をして、奥只見の田子倉ダムの現場に入らせてもらったのです。その時は『無名碑』という小説を書くためでした。名前のないモニュメントのことです。
 昭和20年代の終わりから30年代の初めにかけて、大ダム建設が始まり、それまで日本にはなかった大ダム工法による佐久間ダムが完成したそうですね。田子倉ダムは、会津若松の奥にあり、当時は交通が不便で大変でした。だから、田子倉へ行くというと「あら、恐ろしい所へ行くわね」などと言われるほどでした。
 小説の主人公はそのダムと名神高速道路、そしてアジアハイウェーの現場を動いています。花形の現場ばかり歩いた幸運な土木技術者という設定でした。そのため、ダムと高速道路と二つについて勉強することになりました。
 一方、高瀬ダムの時は施工主である東京電力にお願いに行ったのです。当時は東電会長であり、経団連会長でもあった平岩外四さんがまだ現職でいらっしゃいました。平岩さんは工事を請けた前田建設、佐藤工業、鹿島、飛島、間といった大手ゼネコン五社の各社長さんを、わざわざ昼食会に招いて私を引き合わせ、取材のために自由に現場に入ることへの了解を取りつけてくださいました。
 そこまではわりと簡単に進みましたが、問題は下請けさんです。土木の世界には、女性がトンネルに入るのはご法度という風習があります。そこで私は、一升瓶を持って一社一社を個別に回ってお願いしたところ、全部が受け入れてくれました。それが、『湖水誕生』という作品が生まれる大きな力になったのです。何と言うのか、皆さんの寛大さと近代精神の賜物です。


??現場ではどんな経験をなさいましたか


曽野 初めて現場に入った私は、まず現場の礼儀作法から教わり、その他、所長さんや作業員の方々から何度も笑われながら、いろいろなことを勉強させてもらいました。あれからもう30年が経ちましたが、ダム現場でいろいろな雑仕事をさせてもらったので、現場の末端には所長さんより度々行けました。
 関東ローム層が風化した土であるマサを水で練り、ダムの取り付けのため手仕事で塗る「まんじゅう張り」という作業を覚えたり、オイルショックで建設資材が高騰したため、それまで捨てていた矢板を再利用するようになり、木製矢板の掃除も一緒にやりました。それは楽しかったですよ。
 溶接現場やタイヤの修理場に、半日いたりもしました。そこでボソボソとおしゃべりしながら、作業についてご説明いただいたりして勉強したものです。時には、調査坑の最先端にも行きました。現場が温泉地なので、気温は46度から47度、湿度は100%にもなるのです。そのため保安帽などは、汗でかぶれるためとても被っていられない状況です。現場では海水パンツ1枚になって、ドラム缶の水風呂に何分間かおきに入りながら作業をするという状況でした。
 こうしてお師匠さんたちに弟子入りし、有り難いことに隅々まで現場を知ることができました。逆に、所長さんなど役職者のご苦労はよく知らない。もっぱら現場に徹しました。
 もちろん、直接の接触がなくても、知っていなければ小説というものは書けません。かつて『黒部の太陽』という映画がありましたが、そこに、労務者が一斉に現場を駆けるシーンがありました。しかし、実際の現場ではあのように走ったりはしないのです。崩落でも起これば別でしょうが、普段は絶対にあのように駆けたりはしません。おかげであの映画のウソが分かりました。現場では、決して余分な力は使わないようにしているものです。私は現場で専門家の身のこなしというものを知ったのです。(以下次号)




曽野綾子(その・あやこ)
本名:三浦知壽子  洗礼名:マリア・エリザベト
小説家、日本芸術院会員、女流文学者会会員、日本文芸家協会理事、日本財団会長、海外邦人宣教者活動援助後援会代表、脳死臨調委員、世界の中の日本を考える会理事、松下政経塾理事、国際長寿社会リーダーシップセンター理事、日本オーケストラ連盟理事。

 昭和6年9月17日生、東京都出身。29年3月聖心女子大学英文科卒。28年、小説家で元文化庁長官の三浦朱門氏と結婚。29年、「遠来の客たち」で芥川賞候補となり文壇デビュー。作家として執筆、講演活動をこなす一方、日本財団会長や日本文芸家協会理事、その他政府諮問機関委員など多数の公職を務める他、敬虔なカトリック系クリスチャンでもあり、民間援助組織(NGO)である海外邦人宣教者活動援助講演会代表も務める。特に、この後援会での25年間にわたる活動が高く評価され、第4回読売国際協力賞を受賞した。
 45年、エッセイ「誰のために愛するか」が200万部のベストセラーに。54年「神の汚れた手」で、第19回女流文学賞にノミネートされたが辞退。59年臨教審委員。平成5年日本芸術院会員。日本財団理事を経て、7年会長に就任。最近、発表した作品は、海外邦人宣教者活動援助後援会の記録を著した「神様、それをお望みですか」がある。
 その他の主な作品:「無名碑」「地を潤すもの」「紅梅白梅」「奇蹟」「神の汚れた手」「時の止まった赤ん坊」「砂漠、この神の土地」「湖水誕生」「夜明けの新聞の匂い」「天井の青」「二十一世紀への手紙」「極北の光」など。

【受賞歴】
1979年 ローマ法王庁よりヴァチカン有功十字勲章
1987年 「湖水誕生」により土木学会著作賞を受賞
1988年 フジ・サンケイグループより鹿内信隆正論大賞受賞
1992年 韓国・宇耕(ウギョン)財団より文化芸術賞
1993年 第49回日本芸術院賞恩賜賞
1995年 第46回日本放送協会放送文化賞
1997年 読売国際協力賞1998年財界賞特別賞
 



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