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文部大臣が緊急アピールを出して、人命を奪うことの恐ろしさを訴えた上で、「ナイフを持ち歩くのはもうやめよう。学校に持って来るのもやめてほしい」という通達を出したという。 そんな記事を読んでいるうちに、私はふとうちの場合はどうだったかを思い出した。 ユダヤ人は十三歳になるとバル=ミツヴァという成人式を行う。日本では元服式は十五歳だったという。うちでは改まってそういう式もできなかったのだが、その頃、私たち夫婦は孫に二つのものを贈った。 スイス製のアーミー・ナイフと聖書である。ナイフは本当は私たちが買って与えるのが当然だったのだが、緒方貞子国連難民高等弁務官に頂いたUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のマーク入りのものがあったので、それを記念に与えることにした。ナイフ騒ぎの始まる数年も前のことである。 聖書とナイフというのは、深い意味がある。聖書は、自分の命を棄ててでも人を救うことを教えた書物である。もちろん現実には、私をも含めて多くの人間は利己的なものだから、他人を見捨てて自分が助かろうとするのが普通なのだが、聖書はそのような人間の醜い姿をよく描く。しかしそのような弱い人間も「もしかすると」人間離れするほど、忍耐と愛において強い人間になれるかもしれない、という希望を抱かせる書物でもある。 ナイフの方は、本来人間の生活を支える重要な道具である。そうでなければ、どうしてUNHCRが備品として作ったりするだろう。UNHCRの現場スタッフは、文明とはほど遠い土地の難民の中にあって、いつも携行したナイフで臨機応変に罐詰を開けてやったり、ちょっとした機械の不調を直したり、応急手当ての包帯を作ったり、すべて人の生命を保つ手段として使うのである。彼らUNHCRのスタッフが、難民や同僚を刺したなどという話は聞いたことがないだろう。 聖書は心を、ナイフは肉体を「生かす道具」であるはずだ。その使い方を、教師たちも親たちも教えられなかった、というのは、教育の大きな失敗であった。今ナイフを持ち歩くな、というのは致し方ないかもしれない。しかしそれは病人にお粥だけお食べなさいというのと同じである。ナイフを持たないのが、平和の証だというのは、必ずしも正しくない。ナイフを破壊的な行為に使わないことが、知恵と勇気なのである。 孫は私たちにナイフを贈られた当時は、きれいなサックに入れていつも持ち歩いていたようである。大人になったと思われたことが嬉しかったのだろう。しかし電話をかけて聞いてみると、最近は全く持っていないという。人間小さなことには、気楽に妥協し、世間の規則に従うべきだ。しかし少しでも未開な土地に行く必要ができた時には、生存のために、また人と自分を生かすために、すぐさまナイフを身につけて使える心構えも必要だ。
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