共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 現世の連鎖?クレソンが来なければ…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 237  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/05/17  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私は今の東京の家に、昭和十年から住んでいる。親の家だったのだが、一人娘だったので、そこに住み続けることになった。柿の木も小さな池も、ずっと古くからのもので、いつからあるのか正確な記憶もない。池は少し漏るので、いつのまにか空になっていた。しかし水位を少し下げれば溜まり水になる。
 今年の四月初め、イスラエルに旅行する直前の忙しい時に、私は友人からもらったクレソンの根を大鉢に植えて、この池の中に沈めて出かけた。この友人というのは、東京を離れて千葉県下の少し辺鄙(へんぴ)なところに大きな土地を買って住んでいる。クレソンは近くの渓谷で採ってきてくれたものだった。
 三週間後に帰ってきて見たら、信じられないほど繁茂している。庭ではずっとリーフレタスを作っているので、このごろはそれにクレソンとパセリを添えられるようになった。素人からみるとパセリは気紛(きまぐ)れな植物で、同じ手順で種を播(ま)いてもやたらと生える時と、さっぱりだめな時とある。今のパセリは大当たりしたので、これも小さな茂みになっている。
 クレソンの池は、時々僅かずつ水を流すことにした。それで安心していたら、或る日、眼のいい人が覗きこんで「すごいボーフラだ」と言った。全く現世というところは、決していいことばかりではないのである。
 仕方なく、私は金魚を買いに行った。できるだけつまらないスタイルのが、丈夫で長持ちする。金魚屋さんのおばさんという人は、信じがたいほど無愛想な人だった。しかしこういう人でも、これだけの店を繁盛させて行けるのかと思うと、希望が湧いてきた。
 金魚の水槽の傍には壜(びん)が積んである。中にはすばらしく鮮やかなブルーや赤い鰭(ひれ)をなびかせた小魚が一匹ずつ生きていた。タイ原産の熱帯魚で、ベータとかベタとか言う。
 たまたま私といっしょにいた人がその魚を飼ったことがあった。水槽も酸素のブクブク装置も水草も要らない。実に丈夫。こつは一つ、いっしょに入れるとお互いに食ってしまうので、必ず別々に、しかもできれば二匹すぐ近くに置く。すると相手の姿で興奮して、この鮮やかな色がいっそうきれいになる。相手が雌か雄かも定かでないのにである。一匹だけの時は鏡を置いてやる。何という強烈で率直な自己主張だろう。しかも一匹四百円だった!
 その夕方、壜の中の二匹を見た夫は、私に「おもちゃ?」と尋ねた。「失礼な。ほんものです」と私はいばって答えた。ワープロの台の傍におくと、生きたモビールという感じで、退屈しない。それに、この色は、いかなる画家も出すことができない。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation