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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 虐殺  
コラム名: 私日記 連載39  
出版物名: サンデー毎日  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 1997/12/28  
※この記事は、著者と毎日新聞社出版局の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社出版局に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社出版局の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九七年十一月二十六日
 ケニアのナイロビでAMDA(アジア医師連絡協議会)代表・菅波茂氏と読売新聞のヨハネスブルグ支局長・吉形祐司氏が合流。ルワンダの行程が始まる。
 ここ数日、体中ダニに食われて腫れ上がっている。考えることもできなければ、原稿も書けない。副腎皮質ホルモンの入った塗り薬は著効があるのだが、そうそう塗り続けるわけにいかないだろう。飛行機の座席に座るだけでひどくなる。毛布はもっと悪い。皮膚にいいも悪いもなく、殺虫剤を吹きつける。かばんの中にも撒く。食われているのは、私と、もう一人だけ。
 キガリ着後、AMDAの代表部に行き、ブリーフィングを受ける。夕方、保健大臣ビンセント・ビルダ氏に会う。保健省の建物の入り口付近のガラスはすべて割られたまま。風通しがよくていいか。
 十一月二十七日
 普段はケニア駐在だがルワンダも兼任されている堀内伸介日本大使と、帰還難民の入る建設中の家(シェルター)をショロンギという地区に見に行く。ルワンダというのは千の丘という意味だそうだが、名の通り国中なだらかな丘だらけ。トウモロコシ、サツマイモ、マニヨク薯、水稲。
 シェルターは日干し煉瓦の壁に上塗りをしたもの。日干し煉瓦とは、枠を地面に置き、骨材に当たるワラなどを混ぜた付近の泥を詰めて乾かしただけのもの。旧約聖書に既に出てくる代物だが、今でも世界中の貧しい人たちの家は日干し煉瓦だ。日本財団の若い職員が、日干し煉瓦をはっきりと認識できただけでも嬉しい。
 しかし作っているそばから雨で溶けるというのでおかしいと思う。日干し煉瓦の家は乾期に建設して、できるだけ乾かして壁に強度を出すのが常識だ。しかし聞いてみるとこの土地には少なくとも二、三カ月は続くようなはっきりした乾期がなくて、始終、降ったりやんだりするという。
 間取りはしっかりしたものだ。南米のスラムはたいてい一部屋で、仕切りがないから子供たちは親たちのセックスを早くから見て育つ。ここは少なくとも間仕切りがある。世界の人口問題を解決するのは、部屋を区切り、壁とドアをつけることにもある。
 午後、キガリから南東へ約五十キロのニャマタ教会と、さらに西へ約十五キロのヌタマラ教会の虐殺現場へ行く。フツ族が、長年のツチ族に対する怨恨から、ツチ族と彼らに近い関係にあったフツ族までをも、草刈り鎌、槍、小銃、手榴弾、先に爪のついた棍棒などで、女子供まで総嘗めに虐殺したのである。
 ニャマタ教会の庭の地下納骨堂のビニールカバーをとりのけると、凄まじい臭気が噴き出した。階段の下に頭蓋骨が棚に並んでいるのが見える。故人になった一人の法医学者は、こういう時、髑髏を撫でさすったものだった。しかし私はただその前で竦んでいる。ここでは一体のミイラができていた。母が子供を抱いたままの姿で、残されている。彼女は時と事件の証人となる使命を与えられたか。
 ヌタマラ教会は、今でも廃墟の中で彼らが当時生活していた布団や衣服、水罐などが散乱したままになっている間に、遺骨も散らばっている。不思議なことに、めぼしいものは腐ったようなマットレスの中身と衣服だけ。恐らく殺戮の後で、使える品物はすべて奪ったのだ。
 このルワンダの惨劇は、私の同時代に起こった最も残虐な事件の一つだったろう。ナチスがユダヤ人を虐殺した時、私は子供で報道もなかったから全く知らなかった。
 帰り、心理的にかなり疲れている。
 十一月二十八日
 少し離れた学校を見学して、そこでAMDAが贈ったバレーボールのセットで、生徒と試合をするという同行者一行を見送った後で、私は一日原稿を書きます、と休みをもらう。遅めの朝食に起きてフロントを通りかかると、昨日お会いした堀内大使がいらした。そこで、虐殺事件を書いた本のことを教えて頂く。小さな売店の太ったおばさんの背中の棚に、本はあった。
 一日、書くより本を読み続ける。ここ数年、心の中で温めていた長編の重いテーマがあり、その筋の可能性をマダガスカルでもシスターに話していたのだが、不明な部分が一挙にできる。不思議な出会い。大使にお会いしなければ、筋は完成しなかった。
 十二月四日
 アフリカから帰ったのが、十二月一日。翌日は日本財団に出た。執行理事会の最中に、一日遅れて帰国した組が、成田に着いたかどうか心配で、それとなく席を立って秘書課に聞いた。無事帰国を聞いた時、嬉しくて胸が迫った。
 私自身は家で三晩寝た。荷物はまだそのまま。今日再び北京に向かう。厚いオーバーを着て手袋もしっかり。なぜか嬉しいが、暑くて重い。
 北京では「笹川医学奨学金制度」を作って十年が経ったことを祝う式典がある。その間に約千人の中堅以上の医師たちが育った。天安門事件の直後、危険を感じてアメリカなどへ出た数人を除いて、彼らすべてが祖国に帰り、国の医療のために働いている。財団はその間に約四十億円を使った。いい中日関係だった。
 



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