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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 子どもの権利?なんという思い上がりか…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 177  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/09/29  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九四年に日本も批准した国連の「子どもの権利条約」について書いている記事を、先日改めて読んだ。そのこと自体はどこにも文句のつけようはない、というものなのだろうが、私は黙って違和感を覚えている。意見を聞かれれば「もちろんすべてに賛成です」と答えるが、苦労した子どもほどこういう条約が事態を解決するとは思わないだろう。
 第三条には、子どもに関係するすべての活動は「子どもの最善の利益を何より優先して考えなければならない」とあるのだという。
 子どもの時の私がもしこれを言われたら、私は小さな声でまず礼儀正しく「ありがとう」とお礼を言ったと思う。それから俯(うつむ)いて相手の視線の外に出てから、そんなことがあなたにできるんなら、と心の中で呟(つぶや)いたろう。しかしそんなことを口に出せば相手に失礼になると思うから、私は決して何も言わなかったのだ。私はそれほど……もっとはっきり言えばこんなおきれいごとの条約を思いつく単純な大人たちよりずっと……子どもの時からませていて苦労人だったのだ。
 私が子どもの時に受けていた家庭内暴力を、誰がどのようにして取り除けたか、第一私はそんな介入を少しも望まなかった。親を悪人にはしたくなかったからだ。
 一九四五年に主に集中されていたアメリカの無差別爆撃の恐怖……明日の朝まで生きていられないだろうと思う空襲の恐怖……を、誰がどのようにして取り除けたのか。国連に訴えれば、あのアメリカの鼻唄まじりの非戦闘員を狙った空襲を止めてくれたのか。そんなことは、将来ともどもあり得ないだろう。
 しかし私は家庭内暴力にも、アメリカの無差別爆撃にも、感謝したのだ。私は親子の恩愛の複雑さを知った。国家が平然と犯す犯罪は通ることも知った。それこそ私のものの考え方を太く複雑にする最大の教育であった。
 私はアフリカの子どもたちをたくさん見た。生きていることに呆然としている子どもは多かった。彼らは孤児で、病気で、貧しくて、食べるものがなくて、国家もまた無力だった。彼らは、親も、教育も、健康も、食べ物も、助けてくれる親戚や友人も、才能も、救援の制度も、国家的未来も、何一つ見いだせないで、動物のように立っていた。それらの子どもたちを前にして「子どもの最善の利益を何より優先して考える」とは何なのだ。
 やはりこういうふうに思い上がってしかも甘い大人には、俯いてしおらしく「ありがとう」と言っておく方が無難だろう。いじめがあったら国連軍が出てきて、やっつけてくれるのか。制服を着せられるのが人権無視だと国連に訴えて来てお得意になっている日本の子どもたちには、一度垢色の荒布のようになったボロを着せて、冷たい雨で濡れたまま山野を歩かせてみた方がいい。
 子どもたちはかわいがってもらい、話をしてもらい、時には厳しく叱ってもらいたがっている。それは権利などで片づく問題ではない。
 



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