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知人からぼけ防止の集まりに出ています、という通知をもらった。ダンスと園芸と麻雀だそうだ。私はダンスの練習はしたことがないけれど、嫌いではない。園芸は一日中やっていたいほどだし、麻雀は足が悪くなったら必ず始めようと思っているものである。 麻雀のいいところは、やっている間に喋っていいところで、それがブリッジとは大変違う点だろう。ブリッジの沈黙はそれなりに緊張があるのだろうが、黙っていなければならないのは私の性格に合わない。私のようなお喋りも困ったものなのだけれど、ぼけると喋ることがなくなって、黙っているようになる。会話は、何歳になっても、人間が社会と触れるために必要なものだろう、と思う。事実、ぼけの最初の兆候は寡黙になるという形で現れることが多い。 ダンスに関しては、友達が習い始めの頃、私の家の近くの駅前マーケットを通りかかって二人で驚いたことがある。そんなところにダンスの服や靴を売る専門店があったのだ。ダンスの靴やスカートは、普段着と違って夢があるから見ているだけでも楽しい。友達が靴を選んでいる間に私は尋ねた。 「スカートはウエスト何センチまであります?」 「八十八センチまではありますね」 それなら大丈夫だ、と私は思っだ。ダンスを習うような人は皆スタイルがよくて、ウエストは六十センチまでなどと言われたら困ったものだ、と一瞬心配していたのである。 しかし何よりのぼけ防止策は本当は家事をやることである。家事というものはほんとうに大変だ。殊に私のように古い家に住んでいると、絶えず気を配って破損箇所を修理していなくてはならない。壊れるだけでなく汚くもなるから、張り替え、取り替え、そのための職人さんとの交渉も結構手がかかる。他にもゴミは何時までに出す。お昼までにミルクと鶏肉とキャベツを買いに行き、今日は天気がいいからまな板を陽に干すことにしよう。午後は買って来た吊るしの服のカフスのボタンの位置を直し、夕方には水撒きをして……などと考えると仕事の手順には際限がない。 冷蔵庫の中身を覚えることは、機能の悪いコンピューターくらいの精度は要る。古いものから食べる、買ってあったものをうまく使えるように記憶する、容器や道具をあるべき場所におく、などということだけでも、ぼけない前からできない人がいるのだ。老年になってそれができたら大したものだ、と私は思っている。 そんなことはくだらない仕事だ。人間がみみっちいから考えることだ、などと言う人もいるだろう。しかし世間(の主に男たち)はこんな実益を兼ねたぼけ防止策をなかなか実行しないのである。
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