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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 死んだ侍  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い   
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2001/03  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   二〇〇〇年十一月二十二日の夕刻、私の家にフジモリ前ペルー大統領がこられた時、我が家の外見は静かだったが、中は人でいっぱいという感じであった。大きく分ければ、それは警察と外務省の関係者だと思われたが、私はまだ誰がどういう任務を帯びた人か冷静に認識している状態になかった。フジモリ氏が「明日、あなたの家に行きます」と日本語で言われてからまだ二十時間くらいしか経っていない時である。受け入れを決定したのが前夜の十時。SPなどと打ち合わせをして自宅に帰ったのが十一時頃、私は翌日、紋付きを着て出勤しなければならなかった。私が働いている日本財団では、社会のために隠れた所で、時には命を犠牲にしてよいことをされた方々を表彰しているが、その表彰式が常陸宮同妃両殿下をお迎えして行われたのである。
 その仕事から帰宅して私はやっとフジモリ氏が暮らされることになるプレハブの別棟の点検に行った。最低限の用意として、パンと玉子とミルクくらいは冷蔵庫の中にあるか、電気ポットは大丈夫か、バス・マットはきれいか、という程度の用意ができているかどうかを見に行ったのである。フジモリ氏が階下で使われることになるのは、十四畳ほどのリビング・ダイニングで、そこにはまもなく外務省からというお客の一団がソファに座られたから、私がそれらの雑事を継続するには、どうしてもお客の直ぐ脇を通らねばならなかった。それで私は別に立ち聞きをしたのではなく、一つの日本語の言葉を耳にしたのである。それは、「これは、大統領が、資格を申請するというものではありません。もともと有していたものです」というもので、その時、私は初めてフジモリ氏は日本国籍を持っておられたのだなということを察した。
 それから約三カ月近くのことを、私は自分が持っている何本かの連載に一度くらいずつ書いた。私はマスコミの世界に長く生きて来たから、マスコミが私に何を期待しているか知っていた。誰もが、この偶然をいい意味で利用したかったのだ。つまり他紙(誌)には載らない、私しか知らない話を私が書くことを期待したはずである。
 私はその期待に少しだけ応えることにした。しかしよく読んでもらえばわかるが、私はフジモリ氏によって起きた一時的な我が家の変化、後にどのマスコミも知ることになった公然たる事実、またフジモリ氏自身について既に誰もが知っている有名な性癖(生き方)、氏自身が公表された考えに関することしか触れなかった。私は他人のことについて書くこと、ことに他人の心理について代弁することを今まで比較的厳密に避けて来た。自分のことについて他人が書いていることを読むと、多くの場合正しくないからであった。
 マスコミとの対応については、私はかなりの「苦労人」であろうと思うが、私はフジモリ氏から質問があれば答えることに留めた。なぜ日本から大統領を辞任する意思表明をしなければならなかったかについては、初期の談話、第一回目の記者団とのインタビューまたは単独会見において詳細に事情を述べることがもっとも大切なことと思われたが、氏はそうしなかった。私はすべての人には、それぞれの事情があるのだろう、と思うことを原則にし、その事情が大きく深く、他人には計測できない場合が多いからこそ、その恐ろしさに打たれ続けて小説を書くという仕事を一生涯続けて来たのだ。そして人はすべて自ら選択した結果を、自ら受け入れるのである。
 ただフジモリ氏が自らも何度も口にされ、同様に同じようなことを外部にも発表されていることで、私の心に深く残っていることがある。それはフジモリ氏の「死んだ侍は、侍ではないでしょう」という言葉であった。これは日本語で言われたのである。つまり今帰国すれば殺されるということであった。それもフィリピンのアキノのように空港で、かも知れない。それが死んだ侍のイメージであった。
 私はほんとうはその時、半分口を開きかけたのだが、結局何も言わなかった。つまり私は心理的怠け者だから、ここでこのペルーの前大統領と英語で武士道について徹底して語ることになったら大変だ、とつい面倒くさくなったのである。
 フジモリ氏が自らをサムライとして選挙戦で売り込んだ。選挙のポスターには、若いフジモリ氏が武道着のようなものを着てにっこり笑いながら剣を抜いている姿が使われ、そこに「MIRAGRO JAPONES(日本の奇跡)」と書いてあるのだ。
 しかしこのポスターには、実に興味深い点がある。まずフジモリ氏はごく普通の右利きで書いたり食事をしたりされるが、このポスターでは、日本刀らしいものを右の腰にさして左手で剣を抜きかけている。また着ている武道着らしいものも打ち合わせが逆になっている。常識的にそして好意的にみれば、これは恐らく写真を裏焼きにしてしまい、その上にまともにスペイン語を印刷したものだから奇妙なことになったのである。これが日本なら、たとえ何万枚このポスターを刷ろうとも、破棄して正しいものに換えなければ世間の笑いものになる。しかしフジモリ氏はお金がなくてそれができなかったか、フジモリ陣営は着物の打ち合わせや剣をさす位置の間違いくらいほとんどペルー人の注意を引かないと判断したから放置したのであろう。
 私はこのポスターの安易なエキゾチシズムや日本の経済的奇跡を売り物にした意図を非難しているのではない。政治の世界はそういうものだろう。(だから私は政治を避けて来たのだ)
 つまりフジモリ氏は、英語のraceとしては日本人だが、純粋のペルー人なのである。私はその時最近ほとんど聞くことがなくなった「侍」という言葉に一瞬たじろいだのだが、「サムライ」と「侍」を同じものとして論じることは不可能だと感じて口を閉ざしたのである。
「死んだ侍は侍ではない」という言葉は、西欧的な考え方からすれば、まことにその通りである。死んだ侍は、単なるむくろであり、やがて腐肉となる。いかなる影響や命令をいかなる人物にも与えられない、というのが実存的な見方である。
 佐賀藩士、山本常朝の作だと言われる『葉隠』は、こういう場合にもなかなか刺激的な本で、「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂いの覚悟が肝要なり」と言い、「曲者(剛の者)というは勝負を考えず、無二無三に死狂いするなり」と言っている。
 私たちは「死に物狂い」という言葉なら今でもやや日常的に使う。しかし常朝が言うのは「死狂い」なのである。それは武士道の根幹をなす「無分別」の美学である。
 もっともこれには時代的な背景や反語的な意味がある、という人もいる。山鹿素行の「能く勤めて命に安んずるは大丈夫の心なり。されば疋夫は死を常に心にあてて物をつとめ、つとめて命を軽んずるにあり」という思想と対立するものだ、となっている。佐賀藩の鍋島直茂が「武士道とは死に物狂いそのものである。死に物狂いになっている武士は、ただの一人でも数十人が寄ってたかってもこれを殺すことが難しい」と言っているそうだが、こういう発想はアメリカの西部劇なら、ガトリング・ガンができた時からもう役に立たなくなった。それなのに一九四〇年代になってもまだこれを信じていた人たちがたくさんいたから日本は「大東亜戦争」に突入したのだし、今でも時代劇で私たちは一人の剣客が数十人を切り倒す場面を無責任に楽しんでいる。
 驚くべきことに今回日本では、フジモリ氏が、身の潔白を証明するためなら、空港で狙撃されて殺されようと、裁判なしでそのまま収監され、真実を述べる公正な機会など与えられず犬死にのように生涯を終えようと、それが「侍」ならそうすべきだった、という論議が、突然多くの日本のオピニオン・リーダーの間に澎湃として沸き起こったのである。しかしフジモリ氏の考えるサムライとは、こうした「死狂い」の侍とは、全く違うものであったのだ。
 世間が思うほど、私たち夫婦がフジモリ氏と接触する機会は多くなかったから、私は今でも氏の思想を理解したとは思わない。フジモリ氏も毎夜遅くまで「真相をはっきりさせるための記録」執筆のために出勤されていた。遊びの要素は全くない禁欲的な生活ぶりであった。気分を換えに氏の知人が無理やりのように誘い出して飲む機会を作ってくれたことも二、三回はあったようだったが、私たち夫婦は同行しなかった。
 フジモリ氏はすばらしい速さで日本語の日常会話は上達されたが、少し複雑なことを話す時には私たちは英語を使うことが多かった。そんな時、氏はしばしば「戦略(ストラテジィ)」という言葉を口にした。凡そ人間であれば、ましてや政治家であれば「戦略」を考えない人はいないだろう。それは『葉隠』とは全く違う冷静な計算、状況の判断、客観的な数字を把握した上での計画を練ることであろう。
 フジモリ氏の武士道や侍に関する理解は、つまり「富士山、芸者、五重の塔」の系統だったのかもしれない。いそのかみのささめごとそれは全く『葉隠』だの、本居宣長の『石上私淑言』の「心といふがすなはち物のあはれをしる心也」だのの世界ではないのである。それを私は非難することはできない。私たち日本人にしたところで、トゥパック・アマルーという名は、ペルーのテロ組織の名前だと思って記憶したのだが、ペルーの歴史でこれほど便宜的に使われた民族の王の名も多くはないだろうと思われる。
 トゥパック・アマルーはペルーのインカの三代目の王であったが、スペインから送られていたペルー副王フランシスコ・デ・トレドによって、一五七二年クスコで処刑された。白い侵略者たちへの抵抗運動の、トゥパック・アマルーは象徴的な人物になった。
 スペインの支配力が弱まった後の一七八○年にも、トゥパック・アマルー二世を名乗るクスコ生まれの金持ちのメスティソ(スペイン人とインディオとの混血)がいる。この人物は本名はホセ・ガブリエル・コンドルカンキだったのだが、数代前に処刑されたトゥパック・アマルーの娘がいたというので、その名を名乗ることになった。この名がカリスマ的な力を発揮し、農民たちの大規模な抵抗運動を招いたので、このトゥパック・アマルーも一七八一年に処刑された。そしてペルーのテロがしきりに報道されるようになって、初めてトゥパック・アマルーの名はテロ組織として日本人に記憶されることになったのである。私たちの外国理解というものは、どこでもこの程度なのである。
 おかしいのは、日本人が世界のどこででも法が行使されるものと勘違いしている点である。ペルーでも、現在の日本のように整然と法が適用され、フジモリ氏はその法の下に警察か軍に身柄を守られて裁かれ得ると考える日本人が実に多いことが最近になってわかった。ペルーだけではない。世界ではまだ法が権力によって即時に変えられるか守られない国家はいくらでもある。
 最初の発言は、今すぐフジモリ氏を国へ返せという田中康夫長野県知事の発言だったが、岩見隆夫氏は「サンデー毎日」の2001年2月4日号で戦前の浜口や犬養などテロに倒れた日本の首相の例を引き、「一流の公人」なら「ペルーのために帰国しなさい」と書いている。私の家で今働いてくれている日系ブラジル人がたった一言「今帰ったら殺されますよ」と言い捨てたのとは大きな違いだ。(もっともこの状態も数力月単位でよくなったり悪くなったり変化するだろうが)「一人の人間の命は地球よりも重い」という思想はやはりまちがいだったと認めればいいのか。
 また櫻井よしこ氏は「正論」平成13年3月号で「日本は公正を重んじる主権国として亡命者の受け入れに踏み切るべきだ。そうした変化を生じさせてはじめて、フジモリ問題を前向きに生かすことができる。が、そのような法改正へのコミットを示すことが日本に万が一、出来ない場合、私はフジモリ氏には、日本国の不決断と不明を詫びて、氏を政治亡命者としてきちんと受け入れ安全に守ってくれる他の国に送り届けるべきだと思う」と書いている。櫻井氏は法律にも詳しい方だが、私のような素人は、日本国籍を持つ人を、誰であろうと……その人が卑怯者であろうと公人であろうと……当人が望まないのに外国へ送り出すことを可能としたら、恐ろしいことだと考える。
 もしトロツキーがソ連に残っていたらと仮定することと、メキシコに亡命して殺された現実とを、比較することは誰にもできない。他者の生命のかかった運命をあれこれ批判予想することは自由だが、誰もそのことに責任は取れないのである。
 櫻井氏は、フジモリ氏を受け入れた私の責任にも言及し、私が「キリスト教徒としての包容力と愛」によって氏を受け入れたかのように書いておられるが、この突然の「愛」という言葉の登場に私は当惑している。「愛」などではなく多分それはちょっとした任務で、しかも卑怯な私は別に身の危険もなさそうだからそうしただけである。私は「法は最低の道徳だ」という言葉が好きだ。私は人道主義者にも、人権の守り手にも、道徳家にもなろうと思わなかったから小説家になったのだし、もし私がフジモリ問題で法を犯していたなら、私は事件以来、複数の警察官から二十メートルと離れていない空間で暮らしているのだから、私を逮捕することほど簡単なことはないだろう。
 櫻井氏はまた私に対して「だが、裁かずとも、愛ゆえに純粋な公正さをもって助言すべきことはある。それは、フジモリ氏は決して一私人ではないこと、氏にはペルー国民への説明義務と責任があると助言することだ。強制する必要は全くないが、少なくとも帰国して説明するのが誠意ある対応だと告げる必要はあるだろう」と書いている。
 平凡な答えになるが、私は六十歳を過ぎた人に、その人が異国の前大統領であろうと普通の人であろうと意見などしない。氏がその程度のことをわからない人かどうか、誰が知っているのだ。又キリスト教的「愛」も、決して相手を改変させることではないのである。有名なパウロの「コリント人への第一の手紙」の13章には「愛」の定義がたった十五項目で示されているが、その中で「(愛は)すべてを忍び」と表現されている「忍ぶ」の原語στεγω(ステゴウ)は「鞘堂を作る、覆う」という意味である。つまり地震の時、母は崩れた家の下で子供の上におおいかぶさって身をもってその子の命を守る、その姿である。そこには相手に対する改変の期待や教戒を意味するものは全くない。
 櫻井氏は私が氏の取材に応じなかったことを書いておられるが、作家というものは、書くべきものは自分で書く。書かない時は書かない理由をずっと考え続けている。今は会見を申し込めば会うのが市民の義務と思われている時代だが、そうでもないのである。
 



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