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年末年始には、日本中の男たちが、うんとお酒を飲み、たらふく食べたはずである。私はいわゆる大酒のみではないのだが、お酒に嗜好が傾く人の気持ちがよくわかる。 心地よいということは、理屈ではないのだ。私はもともと甘いものをあまり好きではないから、お酒が引き連れて来る肴のうまいものも、また魂を売り渡したくなるほど好きなのである。 しかし私のように長く生きて来ると、長い年月お酒を飲み続けて来た人が、中高年になるとどうなるかも、また現実のストーリーとして見せつけられてしまう。「あの人はお酒に強いんですよ」という言葉を、私は若いうちから何度も聞いて来た。私はビールをいっぱい飲んだだけで顔が赤くなるが(厳密に言うと醜く赤黒くなるのだが)お酒に強いという人は、ウイスキー半本飲んでもけろりとしている。お酒に対して強いか弱いかは、スポーツの才能のように、体質的なものだと、私は思いかけていた。 しかし長い年月が経って、私の知人も一斉に中高年になると、お酒に強い人などというものはほとんどいないのだな、と思うようになった。それだけの年月、お酒や煙草を節して来なかった人は、たいていお酒と煙草が原因と思われる病気になっている。 戦後すぐは、悪いお酒が巷にいっぱい出回っていて、当時既に大人だった作家たちは、ほとんどそれで体を壊していた。しかし眼が見えなくなるようなメチール・アルコールだの、その時代特有の質の悪いお酒が世間から退場すると、もう今出回っているような素性のいいお酒なら大丈夫、という気がして来たのである。 しかしそうではなかった。長年のお酒は、思いもかけない伏兵であった。もっともっと長く働けるような知識や才能に満ち溢れた人が、肝硬変や、脳溢血や、癌や、糖尿病にかかっていた。 私は改めて病気の恐さを知った。病気のおかげで、彼らは入院して痛い目に遇ったり、仕事を取り上げられたり、行動を制限されて好きな旅行にも行けなくなっていた。それらの病気は運が悪いからではなかった。彼ら自身がちゃんと原因を作っていたのである。一番大切な配偶者を亡くした人の寂しさなど、どうしてあげたらいいのだろう。私はすべての慰めの言葉が空虚になることを恐れて、何も見舞いをしなかったことさえ度々ある。 お酒を一滴だって飲まないのに、病気にかかる人はいる。しかしお酒や煙草さえ度を過ごさなければ、もっと健康が続いただろうにと思うのは、オウム真理教に入信さえしなければ、ごく普通の良識ある市民の生活ができただろうに、と思うのと似ている。 健康管理は蓄積だ。それは、宝くじを狙う人よりも、毎日毎日ブタの貯金箱に小銭を入れる人の方がお金を溜めるのと同じで、毎日、暴飲暴食をせず、バランスのいい食事を何十年とし続けるより仕方がないのであろう。
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