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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 真の怠慢?記憶の風化は防げるだろうか  
コラム名: 自分の顔相手の顔 405  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2001/01/30  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   時の政府や総理を批判する形にも、常に流行がある。批判によって大衆から批判されない安全な地点を探す、という本能的な小心さが示されることが多い。
 阪神淡路大震災の追悼式に森総理が欠席する、ということが最近の非難の一つの典型であった。しかし政府関係者が、その頃テレビで言っていた。
 「(追悼式に出席するということは)実際問題として一日がかりなんだよな」
 総理の怠慢があるとすれば、それは防災対策を怠ることであって、追悼式に欠席することではない。死者をとむらう思いは私も好きだが総理が死者ばかりとむらっていたら、一年に何日、一総理としての時間をそのために使わねばならないか。死者の数からだけみれば、毎年毎年自動車事故で死ぬ人の数の方が多い。総理の任務は、自動車事故死の死者を減らすことに向けられねばならないのである。
 戦争を語り継がねばならない、震災を語り続かねばならない、という声が良識の証のように言われるが、そんなことができると思うのだろうか。
 私の幼い頃は関東大震災の後十数年が経った時期だった。私の母は三万八千人が焼け死んだ被服廠跡に逃げようとして、逃げられなかったために助かった一人だった。しかしその後の生活のどさくさの中で、私の姉であった幼児を肺炎で失った。「震災がなかったらもう少し手を尽せたように思う」という母の言葉には、少し筋道の通らない部分もあるが、その後に生まれた私には理解できないような、生活の苦労があって、平穏な時なら何とかしてたった一人の娘の生命を救えたかも知れない、という悲しみが残ったのだろう。
 しかし、母の震災の実感は私には伝わらない。私の受けた空襲体験も息子や孫に伝わらなくて当然だ。人間には、体験者と同じように鮮明なイマジネーションなど、湧くわけも定着するわけもないのである。
 それに「記憶の風化」が悪い、というが、震災を受けた人にとって最も望ましいことは、辛い思いの傷の痛みを少しでも忘れてくれることではないのか。
 震災によって親を失った子供を見て、私はその子がずっと悲劇を忘れないでいてくれることなど望まない。子供が一日も早く過去を忘れてくれ、(もちろんその子を愛していた親があったということは周囲の人がくり返しくり返し語ってやるべきだが)、現在を健康に受け入れ、眼を未来に向けることこそ願っている。
 一般論として、人間に忘れる機能がなかったらどうなるのだろう。自殺者はもっとふえ、精神は後向きになって、社会は恐ろしい停滞を見せるだろう。喉許過ぎればという人間の浅はかさも又、一つの大切な機能なのだ。
 それなのに、総理をなじる時だけ、震災の追悼に行かなかったことが持ち出される。本当に非難されなければならないことは、安全対策を怠ること、防災を考えないこと、戦争回避に全力を上げないこと、だけである。
 



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