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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 無意識の善行?働かない人がいるおかげで  
コラム名: 自分の顔相手の顔 236  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/05/11  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   世間では働き者がいいということに決まってはいるけれど、時々そうとばかりも言えない、おもしろい場面を見ることがある。
 先日、車椅子の人も交えた外国旅行をした時のことである。或る日一台のバスから立つことのできない婦人を下ろさなければならなくなった時、本来はそこにいるはずの若い青年たちが、もう一台のバスでオプショナル・ツアーの世話をしに行ってしまっていて、誰も力のある人が残っていなかった。
 中に中年の男性はいたのだが、その人は車を降りるや否や楽しそうにタバコを飲み始めて、事態に全く気がつかなかった。
 すると、まだ若いのだが、軽い呼吸器系の持病があって力仕事はしたことがないらしい青年が、突然その婦人を動かすために立ち上がった。
 私の夫は七十三歳で、今でもけっこう若ぶって力仕事もするので、それに加わったのであろう、と思う。とにかく力仕事の主力はそこにいなかったのだけれど、どうやら無事にその車椅子の婦人を自分の部屋に帰してゆっくり休んでもらうことができたのである。
 「彼は持病はあるけど、弱い男じゃないぞ。やろうとする気力が十分にある」
 と夫は私たちの部屋に帰ってきて褒めた。
 「それというのも〇〇さんがタバコを吸ってくれたおかげだ。人手不足という状況にならなければ、彼は働くきっかけがなかった」
 夫はおかしそうに言った。ヘビースモーカーだの、肝心な時にタバコばかり吸っていて働かないだの、最近は愛煙家の受難時代である。しかしタバコばかり吸っていて、働かない人がいてくれたおかげで、一人の青年が、保護されるばかりでなく、人を保護する立場に立てることがわかったとすれば、そのヘビースモーカーには「よくぞ、タバコを吸ってさぼっていてくださいました」とお礼を言わねばならないくらいだ。
 人生というものは、意識的にだけいいことをするわけではない。無意識のうちに人を育てる役を振り当ててもらうこともある。反対にいいことをしようと思っても、それが「余計なお世話」になることもある。
 今度の旅行には、アサヒビールの樋口廣太郎名誉会長夫妻と、作曲家の三枝成彰氏夫妻も、全く一人のボランティアとして参加してくださった。私が遺跡で転んで軽い捻挫をした時、樋口氏は整骨に大変な才能があることを示してくださったし(ビールの売り上げを伸ばす才能については、私は全くわからないのだけれど)、三枝氏は「僕はまだ若いから」とおんぶする役を買って出てくださった。
 人は、自分の仕事の分野や立場を離れて、一人の人として運命をごく自然に分け合う時、ほんとうにきれいに見える。しかし樋口氏や三枝氏のような方が、一人のボランティアとしてこういう団体旅行に参加されるというケースはほとんどそれぞれの世界で初めてのことだろう。
 



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