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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 国辱  
コラム名: 昼寝するお化け 第183回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1999/07/23  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九九年七月二日の毎日新聞朝刊に一つの記事が出た。
 難病と言われる拡張型心筋症で危険の迫っている一歳の竹村日向子ちゃんが、米国で心臓の移植手術を受けるために渡米した、という記事であった。友人たちが五千七百万円を集め、今後チャリティーコンサートも開くと言う。
 もう何度もこの手の記事を読んだ。私は決してこの記事を書いた毎日の記者を非難しているのではない。しかしいわゆるこうした「人道記事」は、たった一つぽつんと精神の荒野に置かれているだけで、私たちの現実と関連を持たない不気味さを持っている。
 脳死状態に陥った子供からは、臓器移植を日本では認めないのだという。それは、子供の場合は、大人よりはるかに長い期間(ということはどれだけの期間なのか、私は今正確に言うことができないのだが)脳死状態にあっても回復した例があるのだからだそうだ。
 確かにそういう医学的症例を、私はどこかで読んだことがある。ただしその後半年、一年後に、その患者はどういう経過を辿っているか、という報道は読んだことがない。
 もちろん親たちはたとえ子供の予後がどうであろうと、生きていてくれるだけで嬉しいものだから、肉体的・知的回復の度合いなどどうでもいい、のである。しかしそれほどの思いを認めるなら、今でも年間何十万人にも及ぶ中絶という大量殺人を、平然と認めるというのも、ほんとうは変な話なのである。
 この日向子ちゃんの記事の背後には、深い深い国辱がある、と私は思う。アメリカではできて、日本では子供を治せないのだから。日本にはその技術も経済的な力もないというのなら仕方がない。しかし日本は世界的に医療の技術では最先端を行っているのだ。
 アフリカでも南アメリカでもアジアでも、私は貧しい不遇な子供たちが、黙って死ぬのを見て来た。タイでは母子共々がエイズにかかっている子供が、この世で一度もいいことがなかったという表情で力なく泣いていた。その子はもう末期的な症状で、皮膚に肉腫もできているし、肺炎にもかかっていて、今日明日にも急変が起きて当然な状態だと言う。その子は、母にパンツをはき換えさせてもらうために、ちょっと掴まって立ちなさいと言われただけで泣いていた。よほどだるいのだろう。
 日本で大人が死ぬ時は、遺書を書いたり、遺言で財産の分け方を指示したり、家族を呼び集めたりやかましいことだ。しかし貧しい子供たちはほとんど黙って死ぬ。
 医術の最先端があるというのに、子供たちを救うことができないのが日本では「人道」なのである。そしてそのことに新聞記者も政治家もなんら矛盾を感じていない。何度も書いているのだが、脳死段階での臓器移植は、あくまでそれを望む人と提供したい人との間で行われればいいことである。長い間反対派は、「臓器を取られる」という言い方をし、自分たちがしないだけでなく、私のように「差し上げたい」と思う人間の自由な意志まで妨げて来た。
 しかし最近はドナー・カードの制度で個人の意思確認ができるようになったから、やっと許されるようになったのだが、自分で意思を表明できない子供の場合は、親が勝手に子供の生命を操作することになるからいけないのだ、というのがその論理のようである。
 しかしそれなら、胎児の意志はどうなるのだ。中絶される胎児は、その意見を確認されたこともなく、年間数十万人が殺されているのである。
 
新設された「日本財団賞」を差し上げたい人とは
 毎日の記者が、この問題に深い矛盾を感じたのかどうか私は知らない。アメリカは他国の子供に心臓を贈るほど寛大で、技術もある。日本は自国の子供も生かせないで、僅かばかり美談めいたまとめ方で「心臓をもらいに行く」子供を見送る。私が政治家なら、これを国辱と感じるだろうし、新聞記者なら、この矛盾は何なのだ、と悩むだろう。普段言いたいだけアメリカの悪口を言うのに、こういう場合のアメリカの態度に何ら偉大さも感じていないし、脳死段階による臓器移植に真向うから反対している人たちのように、アメリカ的な考え方に抵抗もしていない。ただ国内の美談記事として済ますことはジャーナリズムとしても、核心を衝いていないことになる。
 私が働いている日本財団は今年から、世間の知らない部分で人道的な仕事を続けて来た方たちに、「日本財団賞」というのを出すことにした。政府や地方自治体から、勲章や褒賞や表彰などを受けなかったような方たちを対象に考えている。ほんとうなら、臓器を提供された方々とその家族に差し上げたいところだが、遺族がそれを受け取ることになったら、世間はまたどんな悪口を言うかわからない。
 私はキリスト教徒だが、聖書には、神は誰も見ていないところで行われた人の行為を見ている、という思想がある。他人に知られようが知られなかろうが、自分が正しいと思うことをし続ける、というのは偉大なことである。それは勇気がなければできないことだし、私たちの世界はこうした献身的な人々に支えられている。その人たちの存在を世間に知って頂こうというのが目的である。お金のことを言うと俗物的になるのだが、副賞は百万円に決めた。
 今の日本は、不正確な人の噂話や悪口を言うことばかりに熱心で、偉大なもの、勇気あるもの、片隅に在って凛として美しいもの、に感動する機会がない。それが家庭や教育の崩壊に繋がり、このような繁栄の中にあって、幸福感のない人々をたくさん生むことにもなった。
 読者の周囲に、思い当たられる方がおられるなら、今からでも推薦して頂きたい。どういう人でなければならないということは全くないのだ。ただ「あの人は偉い人だ。私にはとうていできない」と思う人でいいのである。
 何十年も、二十四時間、家族でも誰でも、人を生かす責任を投げ出さなかった人。
 命の危険を顧みず、人間として他者のために、するべき行為を果たした人。
 損を承知で人を助けずにはいられなかった人。
 漠然とだが、私はこうした人々を頭において考えている。そしてそのような人々に、せめてささやかな感謝を表し受けて頂きたいと願う。その仕事の部門のために働いている日本財団傘下の日本顕彰会の電話番号は03・3502・0910、ファックスは03・3502・7190である。
 私たちはもちろん浅ましい心も持っているから、人が自分より劣っていることを確認する時、ちょっと安心したり嬉しかったりすることもあるだろう。しかし同時に多くの場合、自分より偉大な人の存在を知った時、大きな喜びを感じる。その感動を一人占めにしないで社会と分けるつもりである。
 



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